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細倉金属鉱業 川口第一発電所

 今回は宮城県栗原市にある、企業の私有発電所を紹介いたします。

 この川口第一発電所は、細倉鉱山の坑内用機械や精錬設備を動かすためにつくられたものです。私企業が使うため、一般家庭が使用する送電線とは繋がっていません。専用の送電線を利用して、直接細倉鉱山へ電気を届けています。

モダンな書体の銘板が掲げられている。

 さて、発電所の設備について見ていきましょう。水力発電所データベースによれば、花山ダムから取水して、落差を作ってから別の場所で発電するダム水路式の発電所です。途中に一か所だけ、谷をまたぐ水路橋が確認できます。GoogleMapでも確認することができますが、鉄管をコンクリートの台座で支えるタイプです。

 そして、花山ダムから1kmほど離れた場所に落差を作って発電をしています。水圧鉄管は一本で、建屋の直前で道路をくぐる構造になっています。
 周囲は段丘崖の下に作られた集落で、家並みの中で唐突に水圧鉄管が現れる感じでした。

迫川(はさまがわ)の段丘崖を駆け下る水圧鉄管。子供向けの注意看板も見える。

 発電所建屋は運転開始当初からのもののようで、一種の風格すらあります。ところどころの窓や入り口部分だけ近代化されているのが面白いですね。

換気口やシャッターが近代化されているが、鉄格子などの古めかしい部分も目立つ。

 発電所の放水路側には、変電・送電設備があります。5年前は、この部分の電柱が木で出来ていて、非常に驚きました。しかし、今年行ってみると、コンクリートに建て替えられていて残念でした。しかし、安定した電気の供給のためには必要なので、ノスタルジーに浸っているわけにもいきません。

鉄構は古いが、右の鉄柱は亜鉛メッキがまぶしい。
2014年当時は木製だった。
こちらも2014年当時の写真。迫川の対岸から発電所を望む。
木柱には所有者と送電線の名前が書かれたプレートが取り付けてあった。

 この送電線が向かう先は、細倉鉱山の事業所です。ここは明治時代から錫と鉛の一大鉱山として発展してきました。昭和の半ばに閉山した後は、鉛の精錬設備を活かして鉛バッテリーのリサイクルを行っています。

山を越えて鉱山へと向かう木柱の群れ。
川口送電線の終着点である細倉金属鉱業の敷地。今も多くの施設が稼働している

 小さな落差の小さい発電所ですが、決して小さくない電力を鉱山に送り続けているこの川口第一発電所。これからも末永く稼働してもらいたいです。

中部電力泰阜発電所

 伊那・木曽路電力紀行も折り返し、今日は2日目の一番最初である泰阜発電所を紹介します。

中部電力泰阜発電所。2日目は朝から好天に恵まれた。

 中部電力泰阜発電所は、天竜川の本流に作られたダム式発電所です。泰阜ダムで作った落差を、すぐ下流に建設された発電所で電気に変換します。外観は直線基調でシンプルながら、上部に円形の換気窓を持つなどエレガントな印象を受ける発電所です。

 私がこの発電所で最も魅力的だと思うのが、飯田線の隣へ作られた巨大なサージタンクです。

見た瞬間に圧倒される巨大さ。

 サージタンクの役割は、設備の保護にあります。水力発電所が緊急停止するとき、それまで勢い良く流れていた水流が水車の直前で一気に止められます。すると、行き場をなくした水の慣性で、管内の圧力が急激に高まるのです。
 この急峻な圧力の上昇を水撃作用(ウォーターハンマー)と呼びます。
 この現象を抑制するには、途中に遊びを設けて圧力を逃がすことが必要です。そのために水圧鉄管の途中に設置される設備がサージタンクです。
 サージタンクは水圧がかかっている箇所に設置されるため、開口部は鉄管路の入り口より高くないといけません。そのため、遠目からでも目立つ巨大な構造物となることが多々あります。

 この泰阜発電所のサージタンクは、流量が大きい鉄管路の途中に設置されているため直径が巨大で、しかも4本あることから非常に存在感のある設備です。

クルマの脇にあるコンクリートの塊は、水圧鉄管が角度を変える部分。

 実は、この場所に私が来たのは初めてではありません。2012年に飯田線に乗ったことがあり、すぐ脇を通過したことがあるのです。その時は咄嗟のことで記録はできませんでしたが、そのマッシヴさに衝撃を受け、ずっと私の心に鮮烈なイメージを残していました。

 それから月日は流れ、7年の後にゆっくりとサージタンクを観察することができました。折しも飯田線の電車が通過したので、その巨大さを強調できた構図で今回は締めたいと思います。

「電車って、こんなに小さかったっけ?」と思ってしまう。

中部電力南向発電所

 権兵衛峠を下って伊那谷へ降りた我々は、中央道を使って一路南へ進路を変えました。途中駒ケ岳PAなどがありましたが、それらを飛ばして一目散に発電所へ向かいます。
 伊那谷最初の発電所は、福沢桃介が最後に手掛けた南向(みなみかた)発電所です。本シリーズの導入で彼を紹介しましたが、木曽川だけではなく天竜川の開発も行っていました。

外観は、落ち着いた公園のよう。

 南向発電所は、ひらけた県道のそばの、段丘崖の下にあります。ちょっとした落差に見えますが、約13km上流から取水し水車を回しています。
 アクセスしやすい場所にあるせいか、正面は芝生が整備されていてまるで公園のようです。入り口には福沢桃介の胸像と彼がのこした言葉「水而火成」が飾られています。これは福沢桃介が好んで使っていたもので、「水を以て火となす」という意味です。

福沢桃介の胸像が鎮座している。

 黎明期の電力事業は都市部の電灯需要が主であったため、火力発電所からごく近い範囲へ送電していましたが、需要が電灯だけでなく工場や電車などの動力に移り変わると、より経済的に大電力を得ることができる水力発電へ移行しようという動きが出てきました。この言葉は、福沢桃介が水力発電所の建設によって発電事業を成功させようとする気概にあふれた言葉だと思います。

 さて、発電所の外観を見ていきましょう。正面から見ると、クリーム色の外壁に直線的な窓が設けられたシンプルさがありながら、ところどころに入れられた突起や半円の窓が面に表情を与えてくれています。木曽川の桃山発電所にも似た外観ですね。大同電力の息吹を感じる外観です。
  建屋のすべて後ろに水圧鉄管や変電設備が集約されているので、正面から見るとまるで文化施設のような印象を受けます。

実にモダンな外観をしている。

斜めから見ると、斜面に設置されたマッシヴな水圧鉄管や、オリジナルと思われる鉄構が少しだけ見えるのが、興味をそそります。

太い水圧鉄管が、流量の豊富さを物語っている。

 次回は少し下流へ行った場所にある、長野県企業局小渋第二発電所の鉄塔を紹介する予定です。

関西電力 寝覚発電所

 朝の冷え込みも緩み、春の足音が近づいてきました。

 そんな中、私は春分の日と土日を繋げて4連休を取得し、中部地方に住む同好の方と木曽・伊那路を電力設備目当てに訪問してきました。

 その中でも印象に残ったのは、景勝地・寝覚ノ床の近くに位置する関西電力寝覚発電所です。

 そもそもなぜ中部電力のテリトリーである長野県に関西電力の発電所があるかというと、木曽川の電源開発は太平洋戦争前に関電の前身の一つである大同電力が行ったから、という歴史的経緯があります。

 さて、来歴に軽く触れた後は発電所を見ていきましょう。実はこの直前に、予定していたルートが崖崩れで通れなくなっていたので、逆方向から迂回してきました。

 モダンなコンクリート造りの建物からは、60Hzの音が響いてきます。生まれも育ちも50Hzな私には、遠くへ来たと実感できる音ですね。発電所裏手の変圧器から真上に伸ばされた電線は、屋上に直接引き留められた(!)碍子に接続され、送電線との開閉設備がある段丘崖上へ繋がっていきます。

建屋に直接取りついた碍子の影が、側面に落ちている。後ろに見えるのは駒ケ岳。

 その途中にあるのが、この発電所のスターと言っても過言ではない二連の1回線水平配列鉄塔です。言葉も不要の愛らしさ。足元の武骨な水圧鉄管とのコントラストも映えています。

かわいい。

そして、その上には木曽谷の発電所群を連絡する送電線とのジャンクションがあります。こちらの変電所も、裏手からフェンス越しのアングルを狙えます。

この鉄構も歴史を感じる。

 上から合流してくる連絡線も午後の斜光線に塔体を煌かせて、心なしか歓迎してくれているように見えました。

アングル材に反射する、昼下がりの光線がいい感じ。

 この日と翌日にわたり、かなり濃い内容の行程を消化したので、「木曽・伊那路電力紀行」として、シリーズで紹介していきたいと思います。

九州電力黒崎発電所

 関東は、かなり冷え込みが厳しくなってきました。こんな日は、南国の暖かな日差しに思いを馳せることになります。

 というわけで、今回は南国・宮崎にある九州電力の黒北発電所をご紹介しましょう。

 黒北発電所は明治40(1907)年に日向水力電気によって建設され、九州電力管内の現役の発電所のなかでは最古のものです。訪問した2015年当時は、明治39(1906)年製の水車と200kW発電機が使われていたようです。100年以上前に作られた回転機械が現役とは、保守に携わって来られた方々に敬意を表します。

 この発電所でもっとも特徴的なのは、建屋が石造りという点です。この地域では石材業が盛んで、当時の石材加工技術は建屋だけでなく水路の建設にも発揮されているそうです。

よく見ると、石材の表面も念入りに加工されている。

 地元の方々にとってこの発電所は大きな期待と喜びを以て迎えられたようで、顕彰碑や記念碑がいくつも建立されています。また九州電力の案内看板も力が入っており、この発電所が多くの方から愛されているのだなと感じました。

題は「利用天物」で、天から与えられたポテンシャルエネルギーを人のため役立てるという意味だろうか。

 また、建屋の脇にある配電線の変圧器が非常に古そうで興味深かったです。内部の油を冷やすためのパイプが幾つも縦に走っており、ある種の美しさすら感じました。

 宮崎市中心部から南西にある清武集落に小さく鎮座している発電所ですが、九州の文明開化を告げたその姿は矍鑠として現役を貫いていました。

おまけ:黒崎発電所のすぐ近くにあるバス停の名前が、そのものズバリ「発電所入口」で、思わず記録してしまいました。

一般名詞で通ってしまうくらい有名なのだろう。

下山発電所美術館

 前回は関電トロリーバスの記事を書きましたが、この日は長野県だけでは終わりませんでした。

 大町から北に向かい糸魚川へ抜けた私は、そのまま天険・親不知を越えて富山県の入善町へシビックを走らせました。
 目的地は下山(にぜやま)発電所美術館です。「発電所で美術館?いったいどっちなんだ…」と思う人もいるかもしれませんが、美術館なのでご安心ください。

下山発電所美術館の外観。一段下がっているところは、放水路を改装したのだろう。

 正確には、大正時代に建設された水力発電所を北陸電力が入善町へ譲渡し、現代美術館へ改装した施設です。

 クルマを降りて門に向かうと、右側に水車が並んでお出迎えしてくれます。この形はフランシス水車ですね。この段階でとんでもない施設だなという雰囲気を醸し出しています。

門松の一種だろうか。

 この美術館は、3基の水車と発電機が並んでいた建屋の内部を改装して展示スペースにしてあります。3基のうち入り口から最も奥にあった設備はそのまま残されていて、芸術作品だけでなく発電所設備も鑑賞することができます。

館内は広々とした空間が広がっている。これらすべてが展示スペースだ。

 通常は館内撮影禁止なのですが、今回は特別に作品制作者の意向でカメラを使うことができました。その厚意に甘えて、美術館内部を隅々まで撮影しました。

 この発電所美術館が素晴らしいのは、「水力発電所」という特殊な用途のために作られた建物を、最大限利用して展示の空間として利用している部分です。
 特に、水圧鉄管の開口部をそのままにして、奥にスクリーンを設置し映像作品を鑑賞できる場所にしている箇所は、自由な発想で活用しているんだなと感銘を受けました。

手前のお面が展示物なのだが、設置場所はむき出しにされた水圧鉄管の内部である。

 発電所内部の機器は大部分が撤去されていますが、1基の水車と発電機は保存されており、こちらにもしっかりした解説がついていて楽しむことができます。

1基だけ残された水車。外形は軸方向に長く、珍しい。

 この下山発電所は段丘崖の小さい落差を利用しているため、出力を上げようとすると流量を増やす必要があります。そこで、より大きな回転力を取り出すために、横軸フランシス水車を背中合わせにした「横軸二輪単流前口双子式フランシス水車」を採用していました。そのため、水車のケーシングが前後に長い独特な形状となっているのです。

関西電力旧八百津発電所の放水路にも、同じ形式の水車が設置されていた。
独・ホイト社で1925年に作られたそうだ。

 また、2階の奥は休憩スペースとなっているのですが、なんと系統連系用の機器が並ぶ中央に椅子があり、丁寧に解説も付属しているという充実ぶりでした。

落ち着きのある空間に思える。しかし、一部の人にとっては大興奮間違いなしだ。

 この美術館で最も衝撃を受けたのは、駐車場へあたかも当然のようにフランシス水車が鎮座していたことです。確かに駐「車」場ですから、水車があっても問題はないのでしょう。しっかり枠線の中に「駐車」されていて、腕も確かなようでした。

日本全国を探しても、フランシス水車と並べて駐車できる場所は少ないだろう。

 自分とは全く違う視点で発電所を捉えた施設に入ったことで、これまでにない満足感と楽しさを覚えながら美術館をあとにしました。

東北電力蓬莱発電所

 

今回は福島県の阿武隈川本流にある、東北電力蓬莱発電所を紹介します。DSC_0033

蓬莱発電所は、昭和恐慌と凶作によって疲弊した東北地方の回復を担うため、政府の出資を受け設立された東北振興電力株式会社によって建設されました。

昭和13(1938)年に運転を開始したこの発電所は、日本発送電による管理ののち東北電力に引き継がれています。

出力38,500 kWの蓬莱発電所は、ダムで川をせき止め取水したのち、水路を使い落差を稼いでから発電する「ダム水路式」と呼ばれる方法を取っています。

発電所の設備を、上流から見ていきましょう。

蓬莱発電所の取水口は、福島市飯野町にあります。このダムは飯野堰堤とも呼ばれ、桜の名所として地元の人たちからも親しまれています。

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竣工当時の写真を、大林組のサイトから見ることができます。今とほとんど面影が変わっていません。http://www.obayashi.co.jp/works/work_H682

このダムで取水された水は、地下水路を通って、数キロ下流の調整池へ向かいます。

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奥のスクリーンが発電所に繋がる部分です。

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この調整池から取り入れられた水が、水圧鉄管を通って発電所へと流れ込みます。

発電所建屋を下流から見た写真です。おそらく建設当時から現役であろう発電所建屋と、壁に掲げられた施設名が誇らしげです。

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対岸には道がなく、水圧鉄管が望めないのが残念な点です。地図には上流側に回り込む道が書かれていますが、地元の車両しか通れないことが掲示されていました。

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発電所の周囲は深山幽谷の雰囲気が濃く、道中立派な切通もあり建設時の苦労が偲ばれる部分が多くありました。

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狭い道が続きますので、来訪の際にはどうぞお気をつけて運転してください。

 

参考

東北電力:水力発電所 http://www.tohoku-epco.co.jp/power_plant/water.html

電力と震災 東北「復興」電力物語   町田徹 ISBN 978-4-8222-4999-1

東北電力大堀発電所

今回は、大堀線の起点である東北電力大堀発電所を紹介します。

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この発電所は大正8(1919)年に運転を開始した歴史ある発電所ですが、仙台市によって建設されたという異色の経歴を持ちます。

実は仙台市が発電所に関わる背景には、水道事業があったのです。

それを紐解くために、仙台市の水道事業の黎明期から追っていきましょう。明治時代に仙台ではコレラが流行しました。これは飲用水の汚染が原因と考えられたため、仙台市はイギリス人W.K.バルトン氏に水道施設の設計を依頼し、明治26(1893)年に氏は実際に測量を行ったそうです。これにより、仙台は当時として先進的な水道システムを導入し、青葉区熊ヶ根の大倉川から取水して大正12(1924)年に市内への送水を開始しました。

先進的だったのは水道だけではありません。仙台市は早い段階で電気事業が有利であることを見抜いていました。そこで上水道の水路と川にできた落差を利用して発電所を作ることを計画したのです。そして電気事業を始めるにあたり仙台電力株式会社と、三居沢発電所を建設した宮城紡績電灯会社を買収し、明治45(1912)年に仙台市営電気事業を開始しました。

大正年代に入ると電気の需要が高まり、大倉川から仙台市青葉区にある中原浄水場へ引いた水を利用して、出力1,000kWの大堀発電所が建設されました。仙台市と電気事業の思わぬ関係が、この発電所にはあるのです。

その後昭和6(1931)年から昭和9(1934)年にかけて青下ダムが建設されたので、現在は青下川からも取水していると思われます。

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広瀬川の河岸段丘をうまく利用したこの発電所の上部には、仙台市水道局の中原浄水場があります。現地を見た限りでは、管轄が異なることもあり、水道局の貯水池と発電所の水路は繋がっていないようです。

貯水池の近くから広瀬川へ向きを変えた導水路は、浅い土被りの水路を通ってヘッドタンクに到達し、水圧鉄管へつながっています。

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大堀発電所、いかがだったでしょうか?思わぬところに思わぬ関係があるのが、史料研究を合わせた発電所めぐりの楽しさです。

【蛇足】この発電所は私が仙台に来て初めて寄った発電所です。定義山に行こうとしていた私は、当時県道55号線が通行止めだったのに気付かずあえなくバリケードでUターンして浄水場へ寄り道しました。その時送電線が下に引き込まれているのに気づき、坂を降りた所この発電所を見つけたのです。今回はその時撮った写真を見返して記事を書いたので、とても懐かしい気分になりました。

東北電力白岩発電所その2

 

今回は東北電力白岩発電所の設備を上流から見ていきます。

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取水堰は国道112号線と山形自動車道の立体交差の西側にすこし行った、寒河江川の本流に設けられています。意外と低い堰堤でしたが、近寄ることが出来なかったのが残念でした。この堰でせき止められた水は取水口から勢い良く水路に導かれ、その量は意外と多いものでした。

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取水口を見た後は、導水路に沿って下っていきます。発電所の導水路は川と平行して等高線に沿って建設されるので、等高線を横切る自然の川と必然的に交差することになります。白岩発電所では国道121号線宮内交差点の脇を流れる熊野川との交差が存在しており、水路の交差に興奮する性の私にとっては外せないポイントでした。

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現地に行ってみると、何の変哲もないパイプで川を渡っていました。しかし「明治時代にボルト止めパイプなんてあるわけない!!」ということで初期の構造物の痕跡を探した所、川の中に旧橋脚の基礎を発見。そしてパイプとの接続部分だけコンクリートでそれ以外は石積みという部分も確認できました。なので、昔は鉄桁の水路で川を渡っていたのではないかと思います。本格的な鉄筋コンクリートの利用は明治44(1911)年運転開始の石岡第一発電所まで待たなくてはなりませんので、橋脚の間隔や水路の幅からして鉄桁だったのだろうと推測しました。

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熊野川と交差した導水路は国道121号線を山側にアンダーパスしていきます。実はこの道を6回ほど通ったことがあるのですが、今まで導水路に気づいていなかったのは不覚でした。まだまだ修行がたりないようです。

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山側に移った導水路は、白岩の集落に入る前にトンネルへ変わります。そしてトンネルを3つ抜けた先が、なんと寒河江市立白岩小学校の敷地の中なのです!

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導水路が真ん中を横切る小学校とは、なんとも珍しく羨ましい立地です。校舎と体育館・プールの間に導水路があるため、全校集会や水泳の授業の度に導水路を渡るのです!この学校の生徒の何人かは、後年発電所マニアとなったことでしょう。え、ならない?

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小学校の中という特殊な立地に目が行きがちですが、水路構造物も「石張り」という年季を感じさせるものとなっています。

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小学校の敷地の端には発電所の上部構造物であるヘッドタンクと余水吐きがあります。そこからすぐに水圧鉄管に入り、水車を回して発電しています。

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この配置は100年以上変化していません。水圧鉄管の脇を登る階段も角が丸くなり、流れた時の長さを物語っています。

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発電所が先か小学校が先かは定かではありませんが、この白岩発電所は私達の産まれるより前から登下校する小学生たちの喜怒哀楽を見てきたのでしょう。人と発電所の距離がとても近い、見ていて穏やかな気持になるような発電所でした。

東北電力白岩発電所

今回はお隣の県である山形県の白岩発電所を紹介します。

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明治33(1900)年に開業したこの発電所は、県都山形市に初めて電灯を灯したという功績を持ちます。そして現存する山形最古の発電所ということで、100周年記念を迎えた平成12(2000)年に記念碑と立派な説明板が設置されました。最初に所有した会社から現東北電力への流れと、建設の際の逸話や水車と発電機の出力に加えメーカーまでも記した、非常に読み応えのある説明板です。私も一つの発電所についてこの説明板のようにまとめられたらなぁと思うようなクオリティでした。

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私も負けずに解説していきます。この発電所を建設した両羽電気紡績会社は、米沢出身の製糸家である塚田正一氏によって設立されました。もともと明治28(1985)年頃は水力発電を紡績に利用しようとしたらしいのですが、明治30(1887)年に両羽絹糸紡績会社を設立した直後の明治31(1888)年に、電気供給事業を主軸とする両羽電気紡績会社に改称しました。ちなみに、結局紡績事業は行わなかった模様です。その後明治39(1906)年に山形電気株式会社と再び改称し、日発・東北配電に統合されるまで山形を代表する電気会社でした。

一方発電所は再びの会社名変更と時を同じくして、需要の増大に伴い開業時の米マコーミック社製210馬力水車・米ゼネラルエレクトリック社製150kW発電機を、独フォイト社製875馬力水車・東京芝浦製作所製500kW発電機に取り替えました。

明治からの発電所建屋は昭和22(1947)年の事故により残念ながら焼失したそうです。しかしながら他の構造物には開業当時の面影が色濃く残っていました。次回は発電所の取水部までさかのぼっていきます。

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建設当時の白岩発電所。東北地方電気事業史p.168から。