木曽・伊那路電力紀行 導入

 寝覚発電所の記事から始まったこのシリーズですが、どんな場所を移動したのか知っていただくために、歴史的背景をかいつまんで紹介いたします。

 今回の舞台は長野県南西部、岐阜県と静岡県に接する地域です。ここには南北に糸魚川・静岡構造線(フォッサマグナ)が走り、その西側に木曽山脈が沿うように走っています。この山脈の西に流れるのが木曽川で、東に流れているのが天竜川です。

木曽川と天竜川の略図。河口は意外と離れている。

 これらの川は急峻な谷を下っていくため、「暴れ川」として名を馳せています。しかし、文明開化後はこの急流こそ電気を作るのに好都合であり、二つの河川は発展する都市を支える電源地帯として戦前から積極的に投資が行われてきました。

 この2つの河川の電源開発を主導したのが、大阪に本社を構えた大同電力株式会社です。社長である福沢桃介は「電力王」とも呼ばれ、前身の名古屋電灯株式会社の時代から木曽川を開発し、大正年間には現在の木曽川発電所群の大半を完成させました。その傍ら天竜川の開発にも名乗りを上げ、大久保・南方発電所の建設を指揮しています。
 福沢桃介が関わった発電所は、戦時中の日本発送電株式会社を経て九電力体制に移行する際に、木曽川の電源地帯は関西電力へ、天竜川の電源地帯は中部電力へ移管されました。中部電力の管内だった岐阜・長野の両県に関西電力の施設群があるのは、このような歴史的経緯があるからです。

 今回我々がたどった行程ですが、初日は恵那市の設備を筆頭に、桃介橋訪問、南木曽岳登山、権兵衛峠の連絡線、福沢桃介が建設に携わった最後の発電所である南向(みなかた)発電所等を見てきました。
 次の日は天竜川を下り、泰阜発電所・平岡発電所を訪問し兵越峠を抜け、静岡県の秋葉ダムや船明ダムを見て解散しました。

 次回は木曽川の電力を関西に送電するために大正時代に建設され、今なお現役の鉄塔を紹介したいと思います。

参考: 「木曽川開発の歴史」関西電力東海支社

https://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/tokai/kisogawa/kisogawa.html