阿寺森林鉄道の鉄橋

 南木曽岳から降りてきてお昼を食べたあとは、森林鉄道の跡が残る林道へ向かいました。見てきたのは阿寺渓谷に沿った阿寺森林鉄道の鉄橋です。国道19号から木曽川を渡って支流の阿寺川へ向かうときつい上りが続きますが、森林鉄道の橋から先は林道が林鉄敷を再利用しているため、一気に勾配がゆるくなるという面白い林道を走ってきました。

趣のある鉄橋。手摺があったが、さすがに渡れなかった。

 ここで閑話休題。発電所とは直接関係ありませんが、木曽川の歴史を語るにあたり外せないのが林業です。
 木曽川沿いは御料林もある材木の産地として有名でした。そして、この木材を搬出する方法として、明治時代までは木曽川支流に直接流すという豪快な方法を取っていました。流した材木は本流で八百津町まで下り、そこで筏を組まれて更に下流へ輸送されるのです。この方法を「川狩り」と呼んでいましたが、洪水が来ると失なってしまう木材が多く、なにより急増する需要を賄えないとのことで、森林鉄道から中央本線につなげて出荷する方式に切り替えました。

 この輸送方法の転換により、木曽川本流をせき止める大井ダムの建設が可能になりました。おや、発電所と関係がありましたね。一見関係のないように思える産業が思わぬところで結びつき、我々の生活を支えてくれていることに思い至ります。

ちょっと下流から見た鉄橋。3月でなかったら河原まで降りていたかも。

 本流とちがって大変澄んだ水が流れていて、寒い季節でなければ飛び込みたくなるような場所です。しかし、ここも増水時にはその本性を表すようで、田石と言われる急流の中で回転した石が川床に丸い穴をあけたところが残っており、流れの凄まじさを主張しているようでした。その光景は私に岩手県の厳美渓を思い起こさせ、少し懐かしい気持ちになりました。

これは岩手の厳美渓。丸いくぼみができた石があちこちに見受けられる。

今回は送電鉄塔がメインだったので廃線跡には踏み込みませんでしたが、木曽路にはあちこち森林鉄道の遺構が残っているので、今度はそちらを主題にした旅もしてみたいなと思っています。

寝覚発電所の上流で見かけた森林鉄道の橋。歩道として再利用されている。

南木曽岳登山

 賤母線の原型鉄塔を撮影した我々は、岐阜県を後にし長野県に向かいます。そして、JR中央本線 南木曽駅のすぐ近くに架かる桃介橋でクルマを止めました。
 この橋を作った目的は、大同電力読書(よみかき)発電所建設のために、工事用軌道で駅と作業現場を結ぶことでした。現在は遊歩道として、自由に渡ることができます。

河原に広がる岩の大きさが、暴れ川であることを主張している。

 以前に訪問したことがあるのですが、工事用軌道のレールが残っていることに気づきませんでした。今回は橋脚に残ったレールの跡をしっかり撮影することができました。現在は吊っている桁が木製ですが、工事用軌道のあった当初は鉄製の桁だったようです。

中央コンクリート部に埋め込まれているのが工事軌道のレールだ。

  桃介橋を見学したあとは、いよいよ南木曽岳へ登山です。と言っても目指すのは登頂ではなく、途中にある送電鉄塔を撮影することが真の目的です。下に地理院地図へ加筆したものを記します。

登山ルート概略図。赤旗が上ノ原登山口で、緑が登山道。オレンジで示した地点が第一鉄塔で、紫で示したのが第二鉄塔である。

 地図中に示した第一鉄塔(オレンジ)と第二鉄塔(紫)は、登山者が便宜的につけた名称です。このうち第二鉄塔が大正時代に作られた木曽幹線の原型であり、しかもここだけ回線ごとに鉄塔が建っているという珍しい構造をしています。今回の旅の最大目標と言っても過言ではありません。

 ちゃんと登山届を入り口に提出したあとは、いよいよ登山道に向かいます。新しく砂防ダムを作ったところまでは比較的歩きやすかったのですが、そこから先は急激な上りと足元を埋め尽くした落ち葉の斜面にかなり苦労させられました。第一鉄塔と呼ばれる送電鉄塔に着くまでに、等高線を直角に横切るような道が続きます。同行者が息も絶え絶えになりながら、鉄塔に到着しました。

木々の隙間から第一鉄塔が見えている。
すぐそばに感じるが、とにかく登りが急で撮影から到着まで5分近くかかった。

 次の第二鉄塔までも距離は短いですが強烈な上りが続き、またもや小休止を挟みながら牛歩の速度で登りきりました。

第一鉄塔からの眺め。

 そこで我々を待っていたのは、大正時代に作られた、大阪電灯株式会社をルーツとする関西電力木曽幹線の須原甲乙35鉄塔です。前後の区間が大きく谷を通過するからかもしれませんが、この区間は1回線ごとの鉄塔となっています。

木曽幹線須原甲35鉄塔。平場がないため引いた写真が撮れなかった。
お隣の尾根にある鉄塔のほうが、外観を把握しやすいかも。

 まず足元を見遣ると、もとは円盤状だったと思われる茶色の破片を見つけました。これは明らかに碍子ですね。よく見ると釉薬の一部が溶けていて、そこからフラクタル構造の紋様が浮かび上がっていました。おそらく落雷を受けて割れてしまったものでは、と考えています。

表面の釉薬が融けている箇所が確認できる。

そして次に興奮したのが、主材に陽刻された”U.S.A CARNEGIE”の文字列でした。およそ100年前に作られた鋼材が、適切な保守管理を受けて今なお現役を続けている姿に強い感銘を受けました。

“CARNEGIE U.S.A”の文字がはっきりと残っていた。感動。

足元をよく見てみると、斜めの補強材だけ亜鉛メッキの近代的なもになっています。近くのプレートにはボルトを外した穴が残っており、おそらく昔の構造材を取り外して改修を行ったと見受けられます。

下の2本だけ新しく、中央のプレートにはボルト穴を開けなおした跡が確認できる。

 一つ上流の尾根には、大阪送電線の原型鉄塔が立っていました。登山道の部分だけ二回線に分けているのは、その下流側で急峻な谷を登り降りするからだと考えています。

こちらの鉄塔も大正12年からこの地に立っている。

 登山SNSでは30分弱と紹介されていた行程を1時間ちょっとかけて登ってきましたが、帰りは行きの辛さが嘘のように、快調なペースで降りてきました。そして正味2時間におよぶ登山は、登頂することなく目的を達成して終了しました。二人して運動不足を痛感していましたが、一仕事を終えた清々しい顔をしていたと思います。

地図を再掲するが、第一鉄塔手前から第二鉄塔まで道が等高線を直角に横切っている。
実際斜面を真っ直ぐ登らされているような区間が大半だった。

関西電力木曽幹線 恵那市の分岐

 今回の旅の同行者と合流した私が最初に向かったのは、恵那市にある関西電力木曽幹線の大井発電所への分岐構造物です。別れた送電線が向かう関電大井発電所は、我が国初の本格的な重力式コンクリートダムを用いた水力発電所で、建設当時は本邦屈指の出力を誇りました。現在でも最大3万2千kWを発電する能力を持ち、関西圏の消費を支えています。大井発電所近辺の区間は大阪電灯株式会社が建設しており、大正年間に建設されて御年100年を超えるかという構造物です。

右方向が大井発電所への分岐。背の小さい鉄塔が建ち並んでいるのは賑やかでかわいい。

 さて、上の写真には現役の施設にしては不自然な箇所があるのですが、見つけることはできましたか?

分岐方向を見たアングル。あれ、手前の鉄塔の様子がおかしいぞ?

 同行者に言われるまで気づかなかったのですが、手前側のジャンパ線が取り外されていました。これがないと、写真の手前側に電気を送れません。
 まさか、この分岐設備が廃止されてしまうのではないか…と心配していた所、鉄塔の足元にジャンパ線が留められているのを見つけました。

外されたジャンパ線は、足元にまとめてあった。

 注意深く接続部分が地面につかないようになっていたので、もう一度つけ直すことを考えているのではないか、と話しながら次の場所に移動しました。

 途中落合ダムの脇の鉄塔が建て替えられてしまい気落ちしたものの、近くにダム建設時のものと思われる吊橋をみつけて興奮したりと、順調に旅程を消化していきます。

渋くて好ましいつり橋。村瀬橋というそうだ。

 そして、賤母発電所に向かう賤母線の原型鉄塔を撮影していたときに、外されたジャンパ線の謎が解けました。

賤母線のNo.37鉄塔。昭和8年から建っている原型だ。

 遠くの山肌に林立する送電鉄塔を何気なく撮ったところ、その日の夜に画像を確認していた同行者が、建て替え作業をしている木曽幹線の鉄塔を見つけたのです。

撮ったときは「壮観だ……これぞ電源地帯」としか考えていなかった。
よく見たら、画面中央で原型鉄塔の隣に近代的なデザインの鉄塔が建てられている。

 
 分岐構造物のジャンパ線が外されていたのは、この建て替え作業に際して電気を遮断するためだったんですね。
 大正時代から木曽の地に立つ鉄塔が建て替えられ、次の100年を担う鉄塔へ役目を譲る世代交代を見ることができました。