常磐線全線運行再開に寄せて

 去る3月14日、常磐線が東日本大震災での被害を受けて不通になってから、9年ぶりに全線での運行を再開しました。同時に、東京の都心と仙台を直通する特急列車が復活し、この日を象徴する列車として注目を集めました。震災前は「スーパーひたち」として走っていましたが、特急列車体系の見直しに伴って名称が「ひたち」と改められ、使用される車両も新世代のE657系電車となっています。

 この復活の日を迎えるにあたり、私はルートを変更して再開した区間の工事記録をこのブログでまとめてきました。特に、坂元駅の山下駅側へ行った先の高架橋は、ゆるくカーブしながら高度を下げていく線形となっているので、長編成列車が走ったときには非常に映えるだろうと期待した場所でした。
 そこで、直通一番列車はその区間で撮ろうと思い、じっくりと計画を練りました。

今回は図中の地点Cで撮影した。

 金曜日に仕事を終えて家に帰った私は、すぐに着替えを詰め込んで仙台へ向かう準備をしました。特に、道中の休憩に使う寝袋は先週末に広げて乾かし、快適な眠り心地の追及に抜かりはありませんでした。
 ゆっくりとエンジンを暖気してから出発し、日付が変わって西那須野インターから東北道へ乗った私は、深夜の高速道路をマイペースで走行します。須賀川で降りてから道の駅安達まで走って、午前2時から5時まで仮眠を取ることにしました。
 
 3月中旬とはいえども深夜の気温は氷点下に迫り、吹きさらしのクルマの中では室温がどんどん下がって行きます。しかし、持ち込んだ寝袋にくるまることで、しばしの安息を得ることができました。
 東の空が僅かに明るくなる時間帯に起き出した私は、R4バイパスを北上して福島市街に入りました。そこからR115と福島相馬道路の無料開放区間を利用して、浜通りへ一気に抜けました。

 一番列車の通過は早くとも10時半以降ですが、これほどまで早く出た理由は場所取りのためだけではありません。この日の天気予報では那須塩原や郡山に日中から雪の予報が出ており、その時間帯を避けるためにも早い時間に移動したのでした。

 6時過ぎには坂元駅前のローソンに到着し、朝ごはんを調達して撮影場所へと向かいました。現地に到着した私が一番乗りだったようで、周りに人はいませんでした。どうやら気合を入れすぎたようです。
 そこから数本普通列車を撮ってウォームアップを行い、ピント合わせの感覚や狙った構図が取れているのかの確認が取れたので、また寝袋にくるまって仮眠を取りました。

 10時少し前に起き出してみると、朝に比べて雲が厚くなっており、明るさは早朝と変わりませんでした。相変わらず一人だけでしたが、通過20分前に地元の方が一人いらっしゃって、挨拶と少しの雑談を交わして互いに準備に入りました。

 通過予定時刻は相馬駅到着の10分前を見込んでいました。その予想通り、10時40分頃にトンネルへ入る特急列車の警笛が聞こえてきます。数瞬の後、カーブしているトンネルの内壁が明るくなり、第一・第二トンネルの間の明かり区間へ顔を覗かせました。 

品川行の一番列車が、トンネルの間から顔をのぞかせた瞬間。

 私はその瞬間を狙ってシャッターを切り、次にピントをトンネル出口の架線柱に合わせます。
 そして、数秒後には第一トンネルから特急列車が飛び出してきました。出口と高架橋の間にあるわずかな築堤区間に顔が入った瞬間、再びシャッターを切りました。

戸花山トンネルから飛び出した「ひたち」。

 そして一気にズームを引き、戸花川を渡る橋直前まで引っ張って編成の長さを強調した構図を取り、この画角の撮影を終えました。

さすが10両編成だけあって、疾走感のある写真が撮れた。トンネル出口に勾配の変化点があることがよくわかる。

 話は変わりますが、私は仙台にいたときに鉄道研究会に所属していました。今回の仙台から都心まで直通する列車の再開にあたり、続々とOBが集まって「ひたち」にはかなりの友人が乗車していました。その中の一人が海側の座席を獲得し号車も特定できていたことから、しばしカメラを降ろして手を振ることにしました。
 一瞬ですが、窓から手を振り返してくれる人の存在を認めることができました。
 後ほど送られてきた写真がこちらです。手を降る私の姿が写っています。彼は私がカメラを構えているものと予想していたところ、私が手を振っていたので思わず振り返したそうで、手ブレの原因はそれだったようです。

右手を振っているのが私。友人撮影。

 さて、手を振り終わった私がそのまま見送っている訳もなく、坂元駅へ高架橋を駆け上がる姿にピントをあわせます。これは、下り列車の予行演習としての意味合いもありました。私がこの区間で撮影した最長編成が6両だったので、10両編成の特急がどのように写るか経験がなかったからです。

上り品川行の後ろ姿。左下のビニールハウスは構図から外せたかもしれない。

 撮影してみると、意外と編成が短く感じました。これで、次の下り一番列車の撮影に向けた準備が整いました。

 この日、下り特急は途中いわきで約8分の遅れを持って運行していました。そして、その遅れのまま相馬を出発し、坂元へも通過予定時刻から10分遅れて姿を現しました。

 撮影場所で待っていると、遠くから薄紅色の車体が切り通しを抜ける姿が現れ、そこから遅れて坂元を駅を通過する警笛が聞こえてきます。そして、徐々に走行音を大きくしながら、カーブに差し掛かりました。予め構えていた場所で1枚と、すこし引いて正面がちに捉えたところで1枚撮影しました。そこから通過する列車に手を振って、上り列車に乗車している友人に確認してもらえるか試しました。

下り1番列車を捉える。この時間には雨が本降りになり、かなり暗くなっていた。

 その友人の席は山側でしたが、私の撮影ポイントに合わせてデッキまで移動していてくれたそうです。残念ながら彼の姿を認めることができなかったのですが、彼は私のことをはっきり確認できていたそうです。

 再開前からずっと「ここで特急列車を撮りたい」と考えていた場所で、上下の直通「ひたち」を撮影することができて、大変感慨深い日となりました。もともと2011年には常磐線特急をいわきで分離して、直通特急を廃止することが決定しました。その直後に東日本大震災が発生し、常磐線自体が南北に分断されることとなってしまいました。
 しかし、今回の直通列車再開は、浜通りと首都圏・仙台を直接結ぶことで、鉄路のつながりと人のつながりの復活を印象づける結果となりました。
 ここまで常磐線の復活に尽力された皆様と、全線再開を信じて待ち続けた地域の方々に心からの祝福を送りたいと思います。
 本当に、おめでとうございます!

常磐線ルート移設区間 (新地ー駒ヶ嶺)

 ルート移設区間のもっとも南側となる、新地と駒ヶ嶺の区間を紹介いたします。

新地-駒ヶ嶺間の地図。地理院地図より転載。

 新地駅を出た列車は、すぐに陸橋をくぐります。その後、架け直された橋を渡って、徐々に旧ルートへ近づいていきます。
地点Aで現在線と旧線が交わり、明治の開業以来のルートへ復帰します。

図A-1 地点Aから仙台方を見る。新地駅の上野方を横切る跨線橋はまだ完成していない。2015.11
図A-2 新旧ルートの合流地点。右側の建物がき電区分所である。2015.11
図A-3 A-1と同じ場所から見た写真。軌道の工事は完了していた。跨線橋も姿を見せている。2016.04
図A-4 A-2と同じ合流地点を望む。き電区部所からのケーブルが引き出され、架線と接続する工事がされていた。2016.04

 合流地点には、変電所間の区切りとなるき電区分所がもうけられています。こちらも、設備を大きく交換して真新しい外観となっていました。

 ここから先の区間においては目立つような土木工事はありませんでしたが、地震の被害を受けたまま手入れされずに放置された既存設備を復旧させる工事は行われていました。特に地点Bにある富倉踏切では、放置された設備が生まれ変わり、再び列車が通過するまでを記録しています。

図B-1 富倉踏切から仙台方を見る。地震のダメージを受けても放置された設備は、見ていて痛々しかった。2013.04
図B-2 B-1と同じ視点から。架線柱や路盤の信号線は一度すべて撤去され、路盤の再整備から工事が始まった。2015.02
図B-3 地点B-2から上野方を望む。信号機へは灯がはいっていない。2015.02
図B-4 再整備された路盤を堺に枕木が新しくなっている。架線柱も新たに建て直された。2015.11
図B-5 生まれ変わった地点Bの区間。踏切の障害物検知装置まで更新され、架線柱も立派なバランサがついている。2016.11
 図B-6 信号機に再び灯が入った。点灯している姿を見た時は感動したのを覚えている。

 一度手入れが止まってしまった設備は、もう一度基礎から作り直さないといけないということがよくわかります。特に、直線区間では、バラストトをすべて撤去して、路盤から補強をし直していました。架線柱も地震の揺れで破損があったことから、全て更新されています。
 この踏切の脇にある上下の第一閉塞信号機に灯が点っている姿を見たときには、とても感慨深い気分になりました。

 地点Cでは、国道6号と交差する地点の付近で、溜池すぐ脇の築堤が変形している箇所がありました。ここも、斜面を補強することで復活しています。

図C-1 地点Cにある溜池すぐ脇の築堤。地震の揺れか放置が原因か定かではないが、土が流出していた。2015.2
図C-2 上で交差しているのが国道6号線。その奥のレールが歪んでいる。2015.02
図C-3 築堤が補強され、架線柱も建て直された区間を営業列車が通過する。2016.12
図C-4 C-2と同じ視点から。架線を支えるブラケットが、更新されていることを確認できる。2016.12

 また、記録はできていなかったのですが、一箇所川を渡る橋を架けかえた箇所があります。新しい区間を走る営業列車に乗った時に気づきました。

 駒ヶ嶺駅の移設はありませんでしたが、震災以降2016年まで列車が走らなかったので、荒れるがままにされていました。特に、駅構内の砂利へ自由に成長した松は、電車が来なくなってからの時間を表しているかのようでした。
 2016年12月に訪れてみると、再開を祝う横断幕が駅に掲げられていて、それが誇らしげでした。

駒ヶ嶺駅に掲げられた横断幕が誇らしげだ。2016.12

 今回をもって、常磐線のルート移設区間を紹介する連載記事は終了です。いよいよ全線再開となる3月14日を迎えるにあたり、自分だけが持っていた常磐線の記録に、日の目を見る機会を与えることができました。
 本来ならば2017年中に公開したいと思っていたのですが、締切のない作業ほど完成しないものはなく、まとめるまで4年以上もかかってしまいました。しかし、全線開通の日を節目として皆様の目に触れていただける形にできたことを、大変喜ばしく思います。

 全線開通した常磐線が、浜通り再興の礎として活躍することを願って、結びの言葉とします。

常磐線ルート移設区間(坂元ー新地) 後編

 前回に引き続き、坂元 – 新地間の定点観測写真を紹介していきます。

坂元- 新地間の地図。地理院地図より転載。

 この区間で私が最も気に入っている場所が、谷を大きく切通したこの地点Dです。かつてこの場所を通っていた道路を常磐線へ沿うように移設しているので、高い地点から列車を見下ろすことができます。坂元方向と新地方向、どちらを見ても列車を見下ろすことができるので、撮影するには大変適した場所です。あまりにも綺麗な直線とカーブなので、まるで鉄道模型のジオラマのようにも思えます。

図D-1 切通区間から上野方を見る。線路を通す高さまで切り崩している途中。遠くに見えるのは新地火力発電所。2015.02
図D-2 仙台方を見た写真。赤川の谷をまたぐ高架橋を建設しているところ。移設された道路のガードレールの白さが眩しい。2015.02
図D-3 ついに路盤の高さまで切り取った状態。法面も美しく補強してある。2015.07
図D-4 奥に見える高架橋も完成に近づいている。2015.07
図D-5 赤川を渡る高架橋も床板を確認できる。2015.07
図D-6 図D-5の線路と同じレベルから上野方面を望む。
図D-7 上野方を望む。すでに枕木が設置され、線路の固定を待っている状態だ。2015.11
図D-8 すでに高架橋は完成して、一直線に伸びる線路が美しい。
図D-9 営業列車が新地駅へと向かう。直線が緩やかな曲線で結ばれる様が、まるで鉄道模型のジオラマのように見える。2016.12
図D-10 赤川の橋から切通へ向かう営業列車。2012.16

 線路に沿った道路は常磐線よりも下から始まることから、任意の高さで線路を眺めることができました。特に、目線が路盤と同じ高さになる場所では線路工事も間近に見ることができて、通うたびに景色が変わる興味深い区間でした。

 また一つ谷を越えて台地を通り過ぎると現新地駅に到着しますが、小さくて雰囲気のよい函渠が地点Eにあり、ここの地点も毎回撮影していました。2015年の2月に築堤上にポツンと佇むパワーショベルを撮影した図E-1は、その中でも好きな写真です。そして、重機がいた場所を軽やかに列車が走り抜けていく図E-4との対比を楽しんでもらえればと思います。

図E-1 築堤の上面を整地するパワーショベル。2015.02
図E-2 法面が補強されて、植物が植えられている。白いコンクリートとの対比が眩しい。2015.07
図E-3 架線柱が立ち始めた頃。法面の補強も終わっていた。2015.11
図E-4 営業列車が駆け抜ける。かつて重機が作業していた場所をE721系が通過する。

 現在の新地駅は、大きく嵩上げされた盛り土の上に立ち、位置もより内陸に移りました。駅前は新たな住宅地として売り出されており、また役場も近いことから、便利な街になりそうです。

現新地駅。列車が来ない時間帯は大変静かになる。

 この新地駅の仙台側には、貨物列車に対応するための分岐器準備工事がされています。最近は特急の直通に伴い10両編成の列車交換には対応したそうですが、今後の完全な拡張を期待してしまいます。

 現駅が山側に移設された一方で、旧新地駅には県道が通過しています。かつては踏切の痕跡もありましたが、いまでは道路に飲み込まれてすっかりその面影もなくなりました。

この先の平地が旧新地駅だった場所である。右奥の盛り土は現新地駅だ。2013.04
316km222と書かれた杭とともに、途切れた旧本線のレール。2013.04

 新地駅から坂元駅までの区間の常磐線旧ルートは、嵩上げの後県道の敷地に転用されています。自分でハンドルを握って運転するときには、往時の優等列車が駆け抜けた姿に思いを馳せつつ、消えていった生活も頭に置いて走りたいものです。

 次回はルート変更区間の最南端である、新地 – 駒ヶ嶺間です。こちらは大きな変化はなく地味な場所ですが、被災した線路がいかに復旧していくかにも焦点を当てて行きたいと思います。

常磐線ルート移設区間(坂元ー新地) 前編 

 今回は坂元駅から新地駅までを紹介していきます。今回の区間は圧倒的な土木構造物の連続で、丘陵地帯をダイナミックに駆け抜けていくことから私が最も好きな区間です。写真が多いため、前編と後編に分けてお送りします。

坂元 – 新地間の地図。地理院地図から引用。

 坂元駅を出た列車は、新地駅まで丘を削り谷を橋でまたぐ、直線的な非常に良い線形で走っていきます。坂元中学校の裏を切通で抜けると、地点Aで町道をまたいで次の台地へと向かいます。

坂元駅上野側1 高架橋から切通に変化する地点。2015.02
坂元駅上野側 2 すでに切通斜面の補強は完了していた。2015.07
図A-1 町道から見た建設中の切通。2015.02
図A-2 完成した立体交差。2016.11

 地点Bの一の沢川の谷をまたぐ区間のすぐ脇が、常磐線の建設と県道の嵩上げに伴う土砂の採取場所になっていて、ひっきりなしにトラックが出入りしていました。

図B-1 一の沢川の谷の仙台方。2015.02
図B-2 前の図と同じ地点。たったの5か月でここまで完成させてしまったのは素直に驚きだ。2015.07
図B-3 地点Bの海側には、復興工事に必要な土砂の採取場があった。2015.07

 一の沢川を渡った常磐線は、地点Cの台地上へ進みます。この区間では畑の真ん中へ唐突に工事の敷地が現れるため、建設当初は何を作っているのか全く分かりませんでした。しかし、その幅と緩やかなカーブから「これが常磐線の新ルートか!」と初めて意識したのがこの場所でした。
 建設工事の進捗に伴い、周辺道路の交差が徐々に変わっていくのが興味深いです。畑の中の細い生活道路は、工事が進むにつれて常磐線に寸断されてしまいました。今では存在しない仮踏切から撮影した写真もあります。

図C-1 画面左右方向に横切っている、色の明るい土の帯が常磐線の予定ルート。2015.02
図C-2 同じ場所を予定ルート上から。中央で交差する小径は、最終的に寸断されてしまう。2015.02
図C-3 小径と予定ルートの交差地点。路盤の整備工事にあたり、通行止めにされている。2015.07
図C-4 C-3の地点から上野方を見る。ちょうど工事車両がある位置に浜原踏切が新設された。2015.07
図C-5 C-4と同じアングルで撮影。浜原踏切の設置工事のため、仮踏切が設けられて小径の往来が復活した。2015.11
図C-6 仮踏切上から仙台方を見る。2015.11
図C-7 一の沢川の高架橋を望む。すでに架線柱が植えられている。2015.11
図C-8 架線の工事が進む。2016.04
図C-9 ピカピカの真新しい吸上変圧器とコンデンサ。2016.04
図C-10 かつて仮踏切があった箇所を試運転列車が通過する。図C-6の画角は取れなくなってしまった。2016.11
図C-11 C-10の位置を車内から撮影する。2019.01

 前編はここまでで終了です。思ったより地点Cの写真が充実していて、掲載数が多くなりました。次回も多くの写真とともに紹介していきます。

常磐線 ルート移設区間(山下ー坂元)

 前回はルート変更区間の仙台側分岐点から、山下駅までを紹介しました。

 山下駅を出た列車は、わずかに海側へ寄りつつ再び地上に降ります。少し突き出した台地の縁をすすんだああとは、進路を山側に向けて今回の工事で新設された2つのトンネル、第1戸花山トンネルと第2戸花山トンネルをくぐります。この記事では、北側にある第2トンネルから紹介していきます。

山下– 坂元間の地図。地理院地図から転載。

 このトンネルを建設している途中の写真を、地点Aから何枚か撮影しています。トンネルの掘削中は出入り口の上に山の神様を祀る「化粧木」が飾られていました。

図A-1 第2戸花山トンネル坑口。上に見える角のようなものが化粧木。2015.02

 これがあれば、「まだトンネル本体の工事が続いている」といういことがわかります。

図A-2 化粧木が取り外された状態。第1戸花山トンネルから進入してきた重機が外に出ているので、本体工事が終わったところだと思われる。2015.07
図A-3 坑口周りの斜面が固められ、線路も敷かれた状態。2015.11

 図A-2とA-3を比較すると、線路の下にはいかに高く砂利が盛られているかということがわかりますね。

図A-4 架線を張る工事が本格的に始められていた。2016.04
図A-5 第二戸花山トンネルに向かう営業列車。2016.12

 マニアックですが、地点Aでは踏切の新設もされていました。線路敷設前から踏切のコンクリート基礎を作っていたのですが、傍から見ると唐突に大きな塊が出現したように感じました。特に道路がない状態だと、地面からの距離が強調されてよりその感想を強めます。

図A-6 「踏切の本体」とでも呼べば良いのだろうか。2015.11
図A-7 仮の踏切から撮影した様子。2016.04
図A-8 完成した踏切を通過する営業列車。2016.12

 第1・第2戸花山トンネルの間には、極めて短い明かり区間があります(地点B)。建設途中は、生コンクリートプラントが設置されていました。この明かり区間のおかげで第2トンネルの坂元側からは次の第2トンネルが見えるため、望遠レンズを使って面白い写真を撮ることができます。

図B-1 第1トンネルと第2トンネルの間にある明かり区間。2015.02
図B-2 完成した明かり区間。架線柱のビームが車両限界を考慮したものになっている。2016.11
図B-3 正確には地点Cからの撮影だが、明かり区間を通過する車両がトンネル越しに見える。2016.12

 地点Cは、第1戸花山トンネルの上野側坑口です。こちらでは面白い建設重機を見かけました。

図C-1 まだ仮の坑口だった頃の第1戸花山トンネル。手前には組立中と思われる重機が見える。2015.02

 実は、この機械は図A-2にも写っているのですが、5か月かけて第1トンネルから第2トンネルに向けて進んでいったようです。建設機械が動いていないときに撮影したので、この機械がどのような働きをするのかは分かりませんでした。おそらく、掘削後のトンネル内壁を完成させるために使ったものだと思われます。また、線路が設置された時には撤去されたことから、軌道工事とは関係しない機械だったようです。

図C-2 坑口の本格的な工事が始まった第1戸花山トンネル。2015.07図
図C-3 完成した第1戸花山トンネル。

 この戸花山トンネルが設置された丘陵は、地元の方々が桜の植樹を続けてきた場所でした。新ルートの工事にあたり、この場所がトンネルとなったことの理由の一つは、桜の名所を保存するためだったそうです。(※1)

 トンネルを出た常磐線は、戸花川を渡って再び高架を連ねながら高度を上げて、坂元駅に到着です。この高架橋はゆったりとしたカーブを描いているので、長編成の貨物列車や特急列車を撮影するにはちょうど良い場所になるでしょう。3月の全線再開が待ち遠しくなる場所です。

図C-4 戸花川橋梁。2016.12
図C-5 20両編成の貨物列車が来れば、とてもいい写真が撮れそうだ。2016.11
図C-6 常磐線では割と長い6両編成だが、物足りなさを感じてしまう。2016.12


 坂元駅は高架上に設置された、行き違いのできない駅です。しかし、将来の増設も視野にいれた構造が、高架橋の各所に見られます。線路を増やす際は、海側に広げるようです。

建設途中の坂元駅。高架が手前に張り出している部分が駅である。2015.11
完成した坂元駅。2016.12

 国道6号がすぐ近くにあり、集落へはより近くなりました。

 かつての坂元駅は、今よりももっと海側にありましたが、津波の直撃を受けて大きな被害を受けました。2013年に訪れた時はホームの跡や線路の通っていた跡があり、踏切も残ったままになっていました。
 しかし、現在は嵩上げされ県道が通過しているので、この光景も今は昔です。かつては列車の運行を支え続けた場所が、より安全な道路交通の礎となっているのは感慨深いです。

旧坂元駅の仙台方踏切の跡を望む。2017.02
常磐線の旧戸花川橋梁を覆うように作られた県道の基礎。2017.02

 次回は坂元駅から新地駅までを紹介していきます。

脚注

※出典
【復興現場最前線】首都圏への足を取り戻せ! JR常磐線14.6㎞を内陸側へ移設復旧 建設通信新聞
http://kensetsunewspickup.blogspot.com/2014/12/jr146.html

Chromebookの話

 私が外出時に使用しているノートパソコンは、Chromebookと呼ばれるタイプです。HP社製のx360 12bというモデルを使用しています。
 今回はChromebookの紹介から、私が今使っているモデルを選んだところまで書いていきたいと思います。

HP x360 12b のデスクトップ。最初のセットアップ中だが、すでに下のランチャーへ他のChromebookで設定していたアプリや環境が同期されている。

Chromebookについて

 パソコンの基本ソフトであるOSに、Chrome OSが採用されているPCをChromebookと呼びます。WindowsやMacと大きく違うところが、その基本がウェブブラウザであるところです。
 そのためハードウェアに求められる性能が低く、安価に手に入れられるモデルが多いです。また、Windows機と同じスペックならば遥かに高速で動作するので、CPUにIntel社のCore シリーズを積んだハイエンドモデルは一切のストレスなく操作することができます。最近のWindows PCも起動が高速化していて10秒を切るモデルもありますが(※1)、そのようなモデルの半額以下でも同程度の短い時間で立ち上がる性能は驚嘆の一言です。
 また、アンチウイルスソフトも不必要で、OSのアップデートにも時間を取られたりしません。6週間ごとに定期配信されますが、気づかないうちにインストールされ、再起動も30秒あれば終了します。
 アプリケーション面ではGoogleドキュメントやスプレッドシートなどのブラウザ上で動くサービスはすべて使うことができます。また、Android用アプリケーションも利用することが可能です。一部タッチパネルに対応していないモデルでは動かせないアプリもあるそうなので、ここは注意が必要ですね。

私がChromebookを選んだ理由

私がCromebookに行き着いた理由は、
・持ち歩きのしやすさ
・文字を入力しやすいキーボード
・Windows機と同じ価格帯ならば、遥かに快適な性能が手に入ること
の3点です。
 持ち歩きのしやすさという点では、11インチから13インチで1kg前後のコンパクトなモデルが豊富にあることに惹かれました。また、消費電力が少ないので、8時間は十分に動作するモデルが揃っているのも魅力的です。そして、Chromebookは文教用に高いシェアを持つため、小さくても堅牢に作られたモデルが多くあり、気兼ねなく外出ができます。筐体が頑丈という美点はキーボードの打ちやすさにもつながっていて、価格から考えると驚くほど「いいな」と思えるキータッチの製品が揃っています。
 そして最も魅力的だったのは、文字入力やブラウジングになんの不満もないモデルが手に入りやすい価格で販売されていることです。もちろん、10万円周辺のハイエンドモデルもありますが、こちらは「待ち」の時間を一切感じさせないほど高速に動作し、キーボードやタッチパッドにもしっかりコストがかかっていると感じられるお買い得商品です。(※2)

私のChromebook遍歴

 最初に私が使ったChromebookは、ASUS C101PAというモデルです。これは画面サイズ10.1インチで1kgを切るという軽さで、これほどまでに気軽に使えるモデルはなかなかありません。また、筐体はすべてアルミ製な上にパームレストにはヘアライン仕上げが施されていて、高級感すら漂うモデルでした。各家電量販店では4万円前後で販売されており、各種ポイントサービスを利用すれば3万円台で購入が可能です。
 このモデルはキーボードの配列が素直でうちやすく、打鍵していても歪むことはありません。また、タッチパッドの精度や指の滑りが価格に対して驚くほど高く、大変使いやすいです。私が使用したパソコンの中で、もっとも高い部類に入るタッチパッド操作感でした。
 小さなことですが、充電端子がUSB Type-Cであったことも利便性を高めた一点です。Androidスマホと充電器・充電ケーブルを共用できるので、外出時の荷物をコンパクトにまとめることができます。
 しかし、C101PAは持ち歩いているうち間違えて落としてしまい、画面が割れてしまいました。タッチパネル機能が失われたところまでは我慢できたのですが、キーボードで正しく文字を入力できなくなってしまったのは致命的でした。

  そこで、2019年の11月に次世代機の導入を決意しました。条件は「持ち歩きが楽なもの」「価格は実質5万円程度」「キーボードバックライトつき」でした。
 その条件で探していく中で、候補に上がったのがHP x360 12bです。キーボードバックライトがついているだけでなく、3:2という縦方向に広いブラウジングに適したアスペクト比に惹かれました。そしてなにより、横幅がC101PAとほとんど変わらないというのが大きな美点でした。私の使い方では電車内で文字入力することがメインなので、縦方向の表示スペースが犠牲にならない縦横比の画面と狭い横幅は、まさに最適なモデルだったのです。

C101PAと並べたx360 12b。横幅はほとんど同じ。

 さて、実機を触ろうと思って出かけたのが、ビックカメラ水戸店です。当時ビックカメラは税込み5万半ばで売り出しており、キャンペーンで20%ポイント還元を行っていました。本体サイズとキーボードに満足し、そしてちょっと重い本体重量(1.35kg)に対して目をつぶった私は、意を決して店員さんに話しかけました。
 しかし、その時はメーカー欠品でビックカメラ全体でも在庫を持っておらず、その場で買うことはできませんでした。せっかく実機を展示してくれていた店舗には申し訳なかったのですが、オンラインストアで購入しました。

 購入してからはあちこちに連れ出してテキストを書いています。
最近はBluetoothで連携したスマホに無線ですぐテザリングができる「インスタントテザリング機能」を用いて、書いたテキストをあっという間に同期することができるので、ますます重宝しています。
 この機能を使うと自動的に従量課金制ネットワークであることを認識してくれるので、アップデートを即時ダウンロードしたりすることなく安心して通信を行えるのがいいですね。

電車の中で使うとこんな感じ。膝の幅丁度に納まるので、気軽に使える。

私の小物たち

 x360 12bを使うにあたり、購入したものについて書きました。
・画面保護シート
  x360 12b用の製品が出ています。通販で買いました。
・PCケース
 13型用のケースです。縦方向に長い独特のアスペクト比なので、
 横幅が余るのはご愛嬌。

C101PAはケースに入れずに鞄へ放り込んでました。それくらい気軽に扱えるのがいいところでしたね。

結び

 とりとめもなくChromebookについて書いてきましたが、私はこのデバイスが大好きです。まるでスマートフォンのような気軽さでどこにでも持ち歩けて、しっかりしたキーボードで文字入力を快適に行えるところが気に入っています。
 私のようにWindowsのデスクトップPCがあって、サブマシンとして文字書きに使えるパソコンがほしいという方には絶対にハマる製品群だと自信を持って断言いたしましょう。

脚注

※1 比較対象はhp社のENVY15 x360。顔認証でログインも一瞬。
※2 店頭で文字入力したりアプリを開いた時の印象。モデルはASUS C434TA。もう何も不満はなかった…。

常磐線 ルート移設区間(浜吉田ー山下)

 2020年3月14日、東日本大震災で被害を受けた常磐線が全線開通する歴史的な瞬間を迎えます。この良き日を迎えるにあたり、2016年に再開した常磐線の工事について記事を書きたいという思いが、私のなかに強くありました。そこで、一区間ごとに紹介するという形で記録を残していきたいと思います。

 3月11日の震災直後は仙台 – 亘理間だけの運行再開だった常磐線も、その1年後には浜吉田駅まで再開区間を伸ばしました。しかし、そこから南の山下駅から新地駅にかけては津波の影響で路盤が流出し、特に新地駅では停車中の列車が直撃を受けて大破するという被害を受けていました。そのため、この区間は山側に線路を移設しての復旧が決定され、2016年12月に運行を再開することになります。これにより、一足先に走り始めていた相馬 – 原ノ町間と合わせて、仙台から浜通り南部の小高駅まで電車で行くことが可能になりました。
 その工事はちょうど私が仙台で生活をしていた時期に重なっていて、度々沿線に出かけては工事の各段階を撮影していました。これまで忙しさにかまけて記録の整理を怠っていましたが、節目の年として眠っていた写真を今一度まとめて紹介したいと思います。

 浜吉田駅から新旧山下駅にかけての地図を置きました。地点のアルファベットが、下記に示す写真の頭文字と一致しています。

浜吉田 – 山下間の地図。地理院地図から転載。

浜吉田駅は、仙台からおよそ30kmの位置にある駅です。この駅の南側から、現在線は海から離れるようにカーブを描いて高架を進みます。地点Aが、旧線との分岐点です。

図A-1 右に逸れていくのが現在線。旧線は黒い乗用車の左側の空間を走っていた。2015.7
図A-2 図A-1と同じ地点で撮影。2016.11
図A-3 開業後に地点Aを通過する列車。2016.12
図A-4 図A-1と位置から浜吉田駅方を望む。右の空間が旧線で、まさに分岐点を撮影している。2015.7
図A-5 新旧ルートの分岐点を通過する701系電車。2016.12

 地点Bには、現在線の踏切があります。ここは旧ルートにも踏切ありましたが、現在線は高架に向けた上りの途中に設定されているため、道路と交差する位置が高くなっています。

図B-1 現在線に設置された踏切。画面奥が山下駅で、上り勾配になっているのがわかる。2015.11
図B-2 完成した現在線の踏切。この日は試運転列車が走行していた。2016.11
図B-3 旧線との踏切跡。すでに線路は取り除かれているが、縁石が名残を残す。2015.11
図B-4 旧線から現在線の踏切を望む。踏切に向けて道路が一段高くなっているのがわかる。
2016.11

 そのまま線路は一直線に高架を進んでいき、内陸へ入っていきます。田んぼを斜めに突っ切って、山元いちご農園付近でカーブを描いて真南を向きます。この地点Cでは、道路と水路をまとめて跨ぐ橋が架けられていますが、この橋の鋼材部分は苺をイメージしたピンク色です。

図C-1 建設途中の橋。迂回路への矢印と、そこを進む自動車が写る。2015.7
図C-2 橋は完成し、架線の工事に映った段階。いちご農園の看板と橋のピンクのコラボ。2015.11
図C-3 営業列車が橋を駆け抜ける。いちご農園の宣伝も心なしか賑やかだ。2016.12

 建設途中から記録していたこの橋を営業列車が走る姿を見たときは、思わずシャッターを押す指に力が入りました。

 進路を南に戻した常磐線は、移設された山下駅へと向かいます。上下線どちらからも進入と出発ができる構造となっていて、定期列車でも山下止まりの列車が設定されています。駅前にはスーパーマーケットが出店していて、新たな生活の中心となる予感を与えていました。

営業を間近に控えた山下駅。2016.11
乗客を迎え入れる準備は万端だ。2016.11
現在線の山下駅至近の交差点に掲げられていた、旧山下駅を示す看板。ちなみに、現山下駅はこの交差点を直進したところにある。2016.11

 この山下駅は、将来の貨物列車通過に備えて有効長を伸ばす準備工事がされています。残念ながら現時点では貨物列車についてのアナウンスはありませんが、ぜひとも運行を再開してほしいですね。

 今回は浜吉田 – 山下間を取り上げました。次回は坂元駅までの区間を紹介します。

細倉金属鉱業 川口第一発電所

 今回は宮城県栗原市にある、企業の私有発電所を紹介いたします。

 この川口第一発電所は、細倉鉱山の坑内用機械や精錬設備を動かすためにつくられたものです。私企業が使うため、一般家庭が使用する送電線とは繋がっていません。専用の送電線を利用して、直接細倉鉱山へ電気を届けています。

モダンな書体の銘板が掲げられている。

 さて、発電所の設備について見ていきましょう。水力発電所データベースによれば、花山ダムから取水して、落差を作ってから別の場所で発電するダム水路式の発電所です。途中に一か所だけ、谷をまたぐ水路橋が確認できます。GoogleMapでも確認することができますが、鉄管をコンクリートの台座で支えるタイプです。

 そして、花山ダムから1kmほど離れた場所に落差を作って発電をしています。水圧鉄管は一本で、建屋の直前で道路をくぐる構造になっています。
 周囲は段丘崖の下に作られた集落で、家並みの中で唐突に水圧鉄管が現れる感じでした。

迫川(はさまがわ)の段丘崖を駆け下る水圧鉄管。子供向けの注意看板も見える。

 発電所建屋は運転開始当初からのもののようで、一種の風格すらあります。ところどころの窓や入り口部分だけ近代化されているのが面白いですね。

換気口やシャッターが近代化されているが、鉄格子などの古めかしい部分も目立つ。

 発電所の放水路側には、変電・送電設備があります。5年前は、この部分の電柱が木で出来ていて、非常に驚きました。しかし、今年行ってみると、コンクリートに建て替えられていて残念でした。しかし、安定した電気の供給のためには必要なので、ノスタルジーに浸っているわけにもいきません。

鉄構は古いが、右の鉄柱は亜鉛メッキがまぶしい。
2014年当時は木製だった。
こちらも2014年当時の写真。迫川の対岸から発電所を望む。
木柱には所有者と送電線の名前が書かれたプレートが取り付けてあった。

 この送電線が向かう先は、細倉鉱山の事業所です。ここは明治時代から錫と鉛の一大鉱山として発展してきました。昭和の半ばに閉山した後は、鉛の精錬設備を活かして鉛バッテリーのリサイクルを行っています。

山を越えて鉱山へと向かう木柱の群れ。
川口送電線の終着点である細倉金属鉱業の敷地。今も多くの施設が稼働している

 小さな落差の小さい発電所ですが、決して小さくない電力を鉱山に送り続けているこの川口第一発電所。これからも末永く稼働してもらいたいです。

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。
こぼしです。

 いよいよ21世紀も20年目となりました。皆様はお変わりなくお過ごしでしょうか。
 昨年は「毎月ブログを更新する」ことを目標にして、その目標を達成することができました。

 今年2020年も趣味に邁進し、情報を発信していきたいと思います。それでは本年もよろしくお願い申し上げます。

牡鹿半島コバルトライン

 11月の三連休を利用して、仙台に行ってきました。私が東北を離れてから初めて2泊することになったので、いつもより余裕があることから少し離れた場所へも行ってみようと思い、学生時代の定番ツーリングコースだった牡鹿半島のコバルトラインへ行きました。コバルトラインは太平洋へ突き出た半島の稜線部をなぞるように先端まで伸びており、入り組んだ浦々と青い海面が時折覗く、とても眺めのよい道です。適度な曲率とリズムを持った曲線が続き、ただゆっくり流すだけでも気分が高揚してきます。 私が最後にコバルトラインを訪れたのが2017年の9月だったので、およそ2年ぶりの訪問となりました。

コバルトラインから望む太平洋

 朝6時にホテルを後にした私は、クルマに火を入れて一路東を目指します。仙台東部道路から三陸道へ入り、石巻河南インターで降りたあとは牧山トンネル経由で渡波まで出てきました。このルートは、仙台に住んでいた時代に幾度となく通過した定番コースです。
 初めて女川に行ったのは2012年だったのですが、ちょうどその時は舗装が壊れていてコバルトラインを走ることが出来ませんでした。そんな記憶を呼び起こしながら、よくここまで復興したなという感慨に浸りつつ走ります。途中、小乗浜(このりはま)方面へ向かうバイパスの工事をしていたのが、2年前から大きく変わった箇所でした。

2012年12月の御番所山公園ゲート。全面通行止めだった。

 女川町側の入り口から最初に到着する展望スペースへは8時頃についたので、少しずつ空の青さが深まっていく時間帯でした。そこを過ぎると、海はきれいに見えても駐車スペースがないという状態が続きます。結局半島の先端にある御番所公園までノンストップで着いてしまいました。公園につくと、私以外には先客一人のみで、非常に静かです。まず展望台に上がり金華山を望むことにしました。

金華山。標高はおよそ400m。

 離島である金華山は、3年連続でお参りすると以降の人生でお金に困らないという言い伝えがあります。このご利益を得ようと遠方からでも信心深い人達が参拝するそうです。ちなみに、近くの鮎川浜から連絡船が頻繁に出ていて、20分足らずで行くことが出来ます。
 島を眺めてしばしうっとりしたあとは、太平洋に目を向けます。もうそこは外海で、白波が湧き遥か遠くのアメリカまで見えそうな気がしてきました。

 すると、視界の真ん中をゆっくりと動く船影があります。どうやら旅客船のようです。もしやと思ってダイヤを調べると、苫小牧を前夜に出発した太平洋フェリーの「きたかみ」でした。最後にフェリーに乗ったのはいつだっただろうかと思いながら、その姿をカメラに収めました。

昨夜のうちに北海道の苫小牧を出発した太平洋フェリーの「きたかみ」。

 しばらく船を見送ったあと、半島の東側、石巻や仙台がみえる方向にカメラを向けます。夏になると全く見えませんが、すこし肌寒い晩秋の朝であったことから、仙台火力発電所だけでなく都心部に立つビルや長町のたいはっくるまで望むことが出来ました。

写真中央部の白っぽい場所が仙台都心部。

 御番所公園でのんびり過ごしたあと、宮城県道2号線で鮎川浜を経由しながら女川市街地へ向かいました。途中県道を通って半島の北側に向かい、女川原子力発電所PRセンターを横目に小屋取浜(こやどりはま)に寄り道しました。ここは女川原子力発電所を海から見ることができる素晴らしい場所で、私のお気に入りの場所です。

再稼働を間近に控えた東北電力女川原子力発電所。

 当時はバイクで来ていましたが、クルマで訪れると過ぎた時間の長さを感じてしまいます。

お気に入りの場所である小屋取浜。嵩上げされて以前よりも海面との距離が遠くなった。


私が2015年に訪れたときには、ちょうど斜面の整備事業をしていたのですが、2019年はその工事も終わってスッキリした姿を見せていました。夏には海水浴を楽しむ家族連れも見られましたが、11月の頭のこの頃には数人の釣り人が糸を垂らすのみでした。

 小屋取浜を後にした私は、県道41号線を走って女川市街地へ移動しようとしましたが、五部浦の先が通行止めになっていて通れませんでした。そこで、もう一度コバルトラインに戻って市街地に戻り、祝日の駅前商店街をブラブラしました。もう時刻は10時に近くなっていましたが、少し冷えた日曜日ということもあってか人はまばらです。

女川駅前商店街。駅から海に向けて緩やかに下っているのが特徴。

 そこで、暖かい飲み物を買いたいなと思い立ちマザーポートコーヒー女川店に入ることにしました。カフェラテを購入したのですが、次は色々なブレンドを試してみたいと思います。

 帰路は東北道の渋滞を避けて磐越・常磐道経由で帰宅しました。
 久しぶりにコバルトブルーの海に浮かぶ金華山を見ることが出来たので、とても充実した仙台旅行となりました。

コバルトブルーの五部浦湾から望む女川市街地。

電力のある歓び