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常磐線全線運行再開に寄せて

 去る3月14日、常磐線が東日本大震災での被害を受けて不通になってから、9年ぶりに全線での運行を再開しました。同時に、東京の都心と仙台を直通する特急列車が復活し、この日を象徴する列車として注目を集めました。震災前は「スーパーひたち」として走っていましたが、特急列車体系の見直しに伴って名称が「ひたち」と改められ、使用される車両も新世代のE657系電車となっています。

 この復活の日を迎えるにあたり、私はルートを変更して再開した区間の工事記録をこのブログでまとめてきました。特に、坂元駅の山下駅側へ行った先の高架橋は、ゆるくカーブしながら高度を下げていく線形となっているので、長編成列車が走ったときには非常に映えるだろうと期待した場所でした。
 そこで、直通一番列車はその区間で撮ろうと思い、じっくりと計画を練りました。

今回は図中の地点Cで撮影した。

 金曜日に仕事を終えて家に帰った私は、すぐに着替えを詰め込んで仙台へ向かう準備をしました。特に、道中の休憩に使う寝袋は先週末に広げて乾かし、快適な眠り心地の追及に抜かりはありませんでした。
 ゆっくりとエンジンを暖気してから出発し、日付が変わって西那須野インターから東北道へ乗った私は、深夜の高速道路をマイペースで走行します。須賀川で降りてから道の駅安達まで走って、午前2時から5時まで仮眠を取ることにしました。
 
 3月中旬とはいえども深夜の気温は氷点下に迫り、吹きさらしのクルマの中では室温がどんどん下がって行きます。しかし、持ち込んだ寝袋にくるまることで、しばしの安息を得ることができました。
 東の空が僅かに明るくなる時間帯に起き出した私は、R4バイパスを北上して福島市街に入りました。そこからR115と福島相馬道路の無料開放区間を利用して、浜通りへ一気に抜けました。

 一番列車の通過は早くとも10時半以降ですが、これほどまで早く出た理由は場所取りのためだけではありません。この日の天気予報では那須塩原や郡山に日中から雪の予報が出ており、その時間帯を避けるためにも早い時間に移動したのでした。

 6時過ぎには坂元駅前のローソンに到着し、朝ごはんを調達して撮影場所へと向かいました。現地に到着した私が一番乗りだったようで、周りに人はいませんでした。どうやら気合を入れすぎたようです。
 そこから数本普通列車を撮ってウォームアップを行い、ピント合わせの感覚や狙った構図が取れているのかの確認が取れたので、また寝袋にくるまって仮眠を取りました。

 10時少し前に起き出してみると、朝に比べて雲が厚くなっており、明るさは早朝と変わりませんでした。相変わらず一人だけでしたが、通過20分前に地元の方が一人いらっしゃって、挨拶と少しの雑談を交わして互いに準備に入りました。

 通過予定時刻は相馬駅到着の10分前を見込んでいました。その予想通り、10時40分頃にトンネルへ入る特急列車の警笛が聞こえてきます。数瞬の後、カーブしているトンネルの内壁が明るくなり、第一・第二トンネルの間の明かり区間へ顔を覗かせました。 

品川行の一番列車が、トンネルの間から顔をのぞかせた瞬間。

 私はその瞬間を狙ってシャッターを切り、次にピントをトンネル出口の架線柱に合わせます。
 そして、数秒後には第一トンネルから特急列車が飛び出してきました。出口と高架橋の間にあるわずかな築堤区間に顔が入った瞬間、再びシャッターを切りました。

戸花山トンネルから飛び出した「ひたち」。

 そして一気にズームを引き、戸花川を渡る橋直前まで引っ張って編成の長さを強調した構図を取り、この画角の撮影を終えました。

さすが10両編成だけあって、疾走感のある写真が撮れた。トンネル出口に勾配の変化点があることがよくわかる。

 話は変わりますが、私は仙台にいたときに鉄道研究会に所属していました。今回の仙台から都心まで直通する列車の再開にあたり、続々とOBが集まって「ひたち」にはかなりの友人が乗車していました。その中の一人が海側の座席を獲得し号車も特定できていたことから、しばしカメラを降ろして手を振ることにしました。
 一瞬ですが、窓から手を振り返してくれる人の存在を認めることができました。
 後ほど送られてきた写真がこちらです。手を降る私の姿が写っています。彼は私がカメラを構えているものと予想していたところ、私が手を振っていたので思わず振り返したそうで、手ブレの原因はそれだったようです。

右手を振っているのが私。友人撮影。

 さて、手を振り終わった私がそのまま見送っている訳もなく、坂元駅へ高架橋を駆け上がる姿にピントをあわせます。これは、下り列車の予行演習としての意味合いもありました。私がこの区間で撮影した最長編成が6両だったので、10両編成の特急がどのように写るか経験がなかったからです。

上り品川行の後ろ姿。左下のビニールハウスは構図から外せたかもしれない。

 撮影してみると、意外と編成が短く感じました。これで、次の下り一番列車の撮影に向けた準備が整いました。

 この日、下り特急は途中いわきで約8分の遅れを持って運行していました。そして、その遅れのまま相馬を出発し、坂元へも通過予定時刻から10分遅れて姿を現しました。

 撮影場所で待っていると、遠くから薄紅色の車体が切り通しを抜ける姿が現れ、そこから遅れて坂元を駅を通過する警笛が聞こえてきます。そして、徐々に走行音を大きくしながら、カーブに差し掛かりました。予め構えていた場所で1枚と、すこし引いて正面がちに捉えたところで1枚撮影しました。そこから通過する列車に手を振って、上り列車に乗車している友人に確認してもらえるか試しました。

下り1番列車を捉える。この時間には雨が本降りになり、かなり暗くなっていた。

 その友人の席は山側でしたが、私の撮影ポイントに合わせてデッキまで移動していてくれたそうです。残念ながら彼の姿を認めることができなかったのですが、彼は私のことをはっきり確認できていたそうです。

 再開前からずっと「ここで特急列車を撮りたい」と考えていた場所で、上下の直通「ひたち」を撮影することができて、大変感慨深い日となりました。もともと2011年には常磐線特急をいわきで分離して、直通特急を廃止することが決定しました。その直後に東日本大震災が発生し、常磐線自体が南北に分断されることとなってしまいました。
 しかし、今回の直通列車再開は、浜通りと首都圏・仙台を直接結ぶことで、鉄路のつながりと人のつながりの復活を印象づける結果となりました。
 ここまで常磐線の復活に尽力された皆様と、全線再開を信じて待ち続けた地域の方々に心からの祝福を送りたいと思います。
 本当に、おめでとうございます!

常磐線ルート移設区間 (新地ー駒ヶ嶺)

 ルート移設区間のもっとも南側となる、新地と駒ヶ嶺の区間を紹介いたします。

新地-駒ヶ嶺間の地図。地理院地図より転載。

 新地駅を出た列車は、すぐに陸橋をくぐります。その後、架け直された橋を渡って、徐々に旧ルートへ近づいていきます。
地点Aで現在線と旧線が交わり、明治の開業以来のルートへ復帰します。

図A-1 地点Aから仙台方を見る。新地駅の上野方を横切る跨線橋はまだ完成していない。2015.11
図A-2 新旧ルートの合流地点。右側の建物がき電区分所である。2015.11
図A-3 A-1と同じ場所から見た写真。軌道の工事は完了していた。跨線橋も姿を見せている。2016.04
図A-4 A-2と同じ合流地点を望む。き電区部所からのケーブルが引き出され、架線と接続する工事がされていた。2016.04

 合流地点には、変電所間の区切りとなるき電区分所がもうけられています。こちらも、設備を大きく交換して真新しい外観となっていました。

 ここから先の区間においては目立つような土木工事はありませんでしたが、地震の被害を受けたまま手入れされずに放置された既存設備を復旧させる工事は行われていました。特に地点Bにある富倉踏切では、放置された設備が生まれ変わり、再び列車が通過するまでを記録しています。

図B-1 富倉踏切から仙台方を見る。地震のダメージを受けても放置された設備は、見ていて痛々しかった。2013.04
図B-2 B-1と同じ視点から。架線柱や路盤の信号線は一度すべて撤去され、路盤の再整備から工事が始まった。2015.02
図B-3 地点B-2から上野方を望む。信号機へは灯がはいっていない。2015.02
図B-4 再整備された路盤を堺に枕木が新しくなっている。架線柱も新たに建て直された。2015.11
図B-5 生まれ変わった地点Bの区間。踏切の障害物検知装置まで更新され、架線柱も立派なバランサがついている。2016.11
 図B-6 信号機に再び灯が入った。点灯している姿を見た時は感動したのを覚えている。

 一度手入れが止まってしまった設備は、もう一度基礎から作り直さないといけないということがよくわかります。特に、直線区間では、バラストトをすべて撤去して、路盤から補強をし直していました。架線柱も地震の揺れで破損があったことから、全て更新されています。
 この踏切の脇にある上下の第一閉塞信号機に灯が点っている姿を見たときには、とても感慨深い気分になりました。

 地点Cでは、国道6号と交差する地点の付近で、溜池すぐ脇の築堤が変形している箇所がありました。ここも、斜面を補強することで復活しています。

図C-1 地点Cにある溜池すぐ脇の築堤。地震の揺れか放置が原因か定かではないが、土が流出していた。2015.2
図C-2 上で交差しているのが国道6号線。その奥のレールが歪んでいる。2015.02
図C-3 築堤が補強され、架線柱も建て直された区間を営業列車が通過する。2016.12
図C-4 C-2と同じ視点から。架線を支えるブラケットが、更新されていることを確認できる。2016.12

 また、記録はできていなかったのですが、一箇所川を渡る橋を架けかえた箇所があります。新しい区間を走る営業列車に乗った時に気づきました。

 駒ヶ嶺駅の移設はありませんでしたが、震災以降2016年まで列車が走らなかったので、荒れるがままにされていました。特に、駅構内の砂利へ自由に成長した松は、電車が来なくなってからの時間を表しているかのようでした。
 2016年12月に訪れてみると、再開を祝う横断幕が駅に掲げられていて、それが誇らしげでした。

駒ヶ嶺駅に掲げられた横断幕が誇らしげだ。2016.12

 今回をもって、常磐線のルート移設区間を紹介する連載記事は終了です。いよいよ全線再開となる3月14日を迎えるにあたり、自分だけが持っていた常磐線の記録に、日の目を見る機会を与えることができました。
 本来ならば2017年中に公開したいと思っていたのですが、締切のない作業ほど完成しないものはなく、まとめるまで4年以上もかかってしまいました。しかし、全線開通の日を節目として皆様の目に触れていただける形にできたことを、大変喜ばしく思います。

 全線開通した常磐線が、浜通り再興の礎として活躍することを願って、結びの言葉とします。

常磐線ルート移設区間(坂元ー新地) 後編

 前回に引き続き、坂元 – 新地間の定点観測写真を紹介していきます。

坂元- 新地間の地図。地理院地図より転載。

 この区間で私が最も気に入っている場所が、谷を大きく切通したこの地点Dです。かつてこの場所を通っていた道路を常磐線へ沿うように移設しているので、高い地点から列車を見下ろすことができます。坂元方向と新地方向、どちらを見ても列車を見下ろすことができるので、撮影するには大変適した場所です。あまりにも綺麗な直線とカーブなので、まるで鉄道模型のジオラマのようにも思えます。

図D-1 切通区間から上野方を見る。線路を通す高さまで切り崩している途中。遠くに見えるのは新地火力発電所。2015.02
図D-2 仙台方を見た写真。赤川の谷をまたぐ高架橋を建設しているところ。移設された道路のガードレールの白さが眩しい。2015.02
図D-3 ついに路盤の高さまで切り取った状態。法面も美しく補強してある。2015.07
図D-4 奥に見える高架橋も完成に近づいている。2015.07
図D-5 赤川を渡る高架橋も床板を確認できる。2015.07
図D-6 図D-5の線路と同じレベルから上野方面を望む。
図D-7 上野方を望む。すでに枕木が設置され、線路の固定を待っている状態だ。2015.11
図D-8 すでに高架橋は完成して、一直線に伸びる線路が美しい。
図D-9 営業列車が新地駅へと向かう。直線が緩やかな曲線で結ばれる様が、まるで鉄道模型のジオラマのように見える。2016.12
図D-10 赤川の橋から切通へ向かう営業列車。2012.16

 線路に沿った道路は常磐線よりも下から始まることから、任意の高さで線路を眺めることができました。特に、目線が路盤と同じ高さになる場所では線路工事も間近に見ることができて、通うたびに景色が変わる興味深い区間でした。

 また一つ谷を越えて台地を通り過ぎると現新地駅に到着しますが、小さくて雰囲気のよい函渠が地点Eにあり、ここの地点も毎回撮影していました。2015年の2月に築堤上にポツンと佇むパワーショベルを撮影した図E-1は、その中でも好きな写真です。そして、重機がいた場所を軽やかに列車が走り抜けていく図E-4との対比を楽しんでもらえればと思います。

図E-1 築堤の上面を整地するパワーショベル。2015.02
図E-2 法面が補強されて、植物が植えられている。白いコンクリートとの対比が眩しい。2015.07
図E-3 架線柱が立ち始めた頃。法面の補強も終わっていた。2015.11
図E-4 営業列車が駆け抜ける。かつて重機が作業していた場所をE721系が通過する。

 現在の新地駅は、大きく嵩上げされた盛り土の上に立ち、位置もより内陸に移りました。駅前は新たな住宅地として売り出されており、また役場も近いことから、便利な街になりそうです。

現新地駅。列車が来ない時間帯は大変静かになる。

 この新地駅の仙台側には、貨物列車に対応するための分岐器準備工事がされています。最近は特急の直通に伴い10両編成の列車交換には対応したそうですが、今後の完全な拡張を期待してしまいます。

 現駅が山側に移設された一方で、旧新地駅には県道が通過しています。かつては踏切の痕跡もありましたが、いまでは道路に飲み込まれてすっかりその面影もなくなりました。

この先の平地が旧新地駅だった場所である。右奥の盛り土は現新地駅だ。2013.04
316km222と書かれた杭とともに、途切れた旧本線のレール。2013.04

 新地駅から坂元駅までの区間の常磐線旧ルートは、嵩上げの後県道の敷地に転用されています。自分でハンドルを握って運転するときには、往時の優等列車が駆け抜けた姿に思いを馳せつつ、消えていった生活も頭に置いて走りたいものです。

 次回はルート変更区間の最南端である、新地 – 駒ヶ嶺間です。こちらは大きな変化はなく地味な場所ですが、被災した線路がいかに復旧していくかにも焦点を当てて行きたいと思います。

常磐線ルート移設区間(坂元ー新地) 前編 

 今回は坂元駅から新地駅までを紹介していきます。今回の区間は圧倒的な土木構造物の連続で、丘陵地帯をダイナミックに駆け抜けていくことから私が最も好きな区間です。写真が多いため、前編と後編に分けてお送りします。

坂元 – 新地間の地図。地理院地図から引用。

 坂元駅を出た列車は、新地駅まで丘を削り谷を橋でまたぐ、直線的な非常に良い線形で走っていきます。坂元中学校の裏を切通で抜けると、地点Aで町道をまたいで次の台地へと向かいます。

坂元駅上野側1 高架橋から切通に変化する地点。2015.02
坂元駅上野側 2 すでに切通斜面の補強は完了していた。2015.07
図A-1 町道から見た建設中の切通。2015.02
図A-2 完成した立体交差。2016.11

 地点Bの一の沢川の谷をまたぐ区間のすぐ脇が、常磐線の建設と県道の嵩上げに伴う土砂の採取場所になっていて、ひっきりなしにトラックが出入りしていました。

図B-1 一の沢川の谷の仙台方。2015.02
図B-2 前の図と同じ地点。たったの5か月でここまで完成させてしまったのは素直に驚きだ。2015.07
図B-3 地点Bの海側には、復興工事に必要な土砂の採取場があった。2015.07

 一の沢川を渡った常磐線は、地点Cの台地上へ進みます。この区間では畑の真ん中へ唐突に工事の敷地が現れるため、建設当初は何を作っているのか全く分かりませんでした。しかし、その幅と緩やかなカーブから「これが常磐線の新ルートか!」と初めて意識したのがこの場所でした。
 建設工事の進捗に伴い、周辺道路の交差が徐々に変わっていくのが興味深いです。畑の中の細い生活道路は、工事が進むにつれて常磐線に寸断されてしまいました。今では存在しない仮踏切から撮影した写真もあります。

図C-1 画面左右方向に横切っている、色の明るい土の帯が常磐線の予定ルート。2015.02
図C-2 同じ場所を予定ルート上から。中央で交差する小径は、最終的に寸断されてしまう。2015.02
図C-3 小径と予定ルートの交差地点。路盤の整備工事にあたり、通行止めにされている。2015.07
図C-4 C-3の地点から上野方を見る。ちょうど工事車両がある位置に浜原踏切が新設された。2015.07
図C-5 C-4と同じアングルで撮影。浜原踏切の設置工事のため、仮踏切が設けられて小径の往来が復活した。2015.11
図C-6 仮踏切上から仙台方を見る。2015.11
図C-7 一の沢川の高架橋を望む。すでに架線柱が植えられている。2015.11
図C-8 架線の工事が進む。2016.04
図C-9 ピカピカの真新しい吸上変圧器とコンデンサ。2016.04
図C-10 かつて仮踏切があった箇所を試運転列車が通過する。図C-6の画角は取れなくなってしまった。2016.11
図C-11 C-10の位置を車内から撮影する。2019.01

 前編はここまでで終了です。思ったより地点Cの写真が充実していて、掲載数が多くなりました。次回も多くの写真とともに紹介していきます。

常磐線 ルート移設区間(山下ー坂元)

 前回はルート変更区間の仙台側分岐点から、山下駅までを紹介しました。

 山下駅を出た列車は、わずかに海側へ寄りつつ再び地上に降ります。少し突き出した台地の縁をすすんだああとは、進路を山側に向けて今回の工事で新設された2つのトンネル、第1戸花山トンネルと第2戸花山トンネルをくぐります。この記事では、北側にある第2トンネルから紹介していきます。

山下– 坂元間の地図。地理院地図から転載。

 このトンネルを建設している途中の写真を、地点Aから何枚か撮影しています。トンネルの掘削中は出入り口の上に山の神様を祀る「化粧木」が飾られていました。

図A-1 第2戸花山トンネル坑口。上に見える角のようなものが化粧木。2015.02

 これがあれば、「まだトンネル本体の工事が続いている」といういことがわかります。

図A-2 化粧木が取り外された状態。第1戸花山トンネルから進入してきた重機が外に出ているので、本体工事が終わったところだと思われる。2015.07
図A-3 坑口周りの斜面が固められ、線路も敷かれた状態。2015.11

 図A-2とA-3を比較すると、線路の下にはいかに高く砂利が盛られているかということがわかりますね。

図A-4 架線を張る工事が本格的に始められていた。2016.04
図A-5 第二戸花山トンネルに向かう営業列車。2016.12

 マニアックですが、地点Aでは踏切の新設もされていました。線路敷設前から踏切のコンクリート基礎を作っていたのですが、傍から見ると唐突に大きな塊が出現したように感じました。特に道路がない状態だと、地面からの距離が強調されてよりその感想を強めます。

図A-6 「踏切の本体」とでも呼べば良いのだろうか。2015.11
図A-7 仮の踏切から撮影した様子。2016.04
図A-8 完成した踏切を通過する営業列車。2016.12

 第1・第2戸花山トンネルの間には、極めて短い明かり区間があります(地点B)。建設途中は、生コンクリートプラントが設置されていました。この明かり区間のおかげで第2トンネルの坂元側からは次の第2トンネルが見えるため、望遠レンズを使って面白い写真を撮ることができます。

図B-1 第1トンネルと第2トンネルの間にある明かり区間。2015.02
図B-2 完成した明かり区間。架線柱のビームが車両限界を考慮したものになっている。2016.11
図B-3 正確には地点Cからの撮影だが、明かり区間を通過する車両がトンネル越しに見える。2016.12

 地点Cは、第1戸花山トンネルの上野側坑口です。こちらでは面白い建設重機を見かけました。

図C-1 まだ仮の坑口だった頃の第1戸花山トンネル。手前には組立中と思われる重機が見える。2015.02

 実は、この機械は図A-2にも写っているのですが、5か月かけて第1トンネルから第2トンネルに向けて進んでいったようです。建設機械が動いていないときに撮影したので、この機械がどのような働きをするのかは分かりませんでした。おそらく、掘削後のトンネル内壁を完成させるために使ったものだと思われます。また、線路が設置された時には撤去されたことから、軌道工事とは関係しない機械だったようです。

図C-2 坑口の本格的な工事が始まった第1戸花山トンネル。2015.07図
図C-3 完成した第1戸花山トンネル。

 この戸花山トンネルが設置された丘陵は、地元の方々が桜の植樹を続けてきた場所でした。新ルートの工事にあたり、この場所がトンネルとなったことの理由の一つは、桜の名所を保存するためだったそうです。(※1)

 トンネルを出た常磐線は、戸花川を渡って再び高架を連ねながら高度を上げて、坂元駅に到着です。この高架橋はゆったりとしたカーブを描いているので、長編成の貨物列車や特急列車を撮影するにはちょうど良い場所になるでしょう。3月の全線再開が待ち遠しくなる場所です。

図C-4 戸花川橋梁。2016.12
図C-5 20両編成の貨物列車が来れば、とてもいい写真が撮れそうだ。2016.11
図C-6 常磐線では割と長い6両編成だが、物足りなさを感じてしまう。2016.12


 坂元駅は高架上に設置された、行き違いのできない駅です。しかし、将来の増設も視野にいれた構造が、高架橋の各所に見られます。線路を増やす際は、海側に広げるようです。

建設途中の坂元駅。高架が手前に張り出している部分が駅である。2015.11
完成した坂元駅。2016.12

 国道6号がすぐ近くにあり、集落へはより近くなりました。

 かつての坂元駅は、今よりももっと海側にありましたが、津波の直撃を受けて大きな被害を受けました。2013年に訪れた時はホームの跡や線路の通っていた跡があり、踏切も残ったままになっていました。
 しかし、現在は嵩上げされ県道が通過しているので、この光景も今は昔です。かつては列車の運行を支え続けた場所が、より安全な道路交通の礎となっているのは感慨深いです。

旧坂元駅の仙台方踏切の跡を望む。2017.02
常磐線の旧戸花川橋梁を覆うように作られた県道の基礎。2017.02

 次回は坂元駅から新地駅までを紹介していきます。

脚注

※出典
【復興現場最前線】首都圏への足を取り戻せ! JR常磐線14.6㎞を内陸側へ移設復旧 建設通信新聞
http://kensetsunewspickup.blogspot.com/2014/12/jr146.html

常磐線 ルート移設区間(浜吉田ー山下)

 2020年3月14日、東日本大震災で被害を受けた常磐線が全線開通する歴史的な瞬間を迎えます。この良き日を迎えるにあたり、2016年に再開した常磐線の工事について記事を書きたいという思いが、私のなかに強くありました。そこで、一区間ごとに紹介するという形で記録を残していきたいと思います。

 3月11日の震災直後は仙台 – 亘理間だけの運行再開だった常磐線も、その1年後には浜吉田駅まで再開区間を伸ばしました。しかし、そこから南の山下駅から新地駅にかけては津波の影響で路盤が流出し、特に新地駅では停車中の列車が直撃を受けて大破するという被害を受けていました。そのため、この区間は山側に線路を移設しての復旧が決定され、2016年12月に運行を再開することになります。これにより、一足先に走り始めていた相馬 – 原ノ町間と合わせて、仙台から浜通り南部の小高駅まで電車で行くことが可能になりました。
 その工事はちょうど私が仙台で生活をしていた時期に重なっていて、度々沿線に出かけては工事の各段階を撮影していました。これまで忙しさにかまけて記録の整理を怠っていましたが、節目の年として眠っていた写真を今一度まとめて紹介したいと思います。

 浜吉田駅から新旧山下駅にかけての地図を置きました。地点のアルファベットが、下記に示す写真の頭文字と一致しています。

浜吉田 – 山下間の地図。地理院地図から転載。

浜吉田駅は、仙台からおよそ30kmの位置にある駅です。この駅の南側から、現在線は海から離れるようにカーブを描いて高架を進みます。地点Aが、旧線との分岐点です。

図A-1 右に逸れていくのが現在線。旧線は黒い乗用車の左側の空間を走っていた。2015.7
図A-2 図A-1と同じ地点で撮影。2016.11
図A-3 開業後に地点Aを通過する列車。2016.12
図A-4 図A-1と位置から浜吉田駅方を望む。右の空間が旧線で、まさに分岐点を撮影している。2015.7
図A-5 新旧ルートの分岐点を通過する701系電車。2016.12

 地点Bには、現在線の踏切があります。ここは旧ルートにも踏切ありましたが、現在線は高架に向けた上りの途中に設定されているため、道路と交差する位置が高くなっています。

図B-1 現在線に設置された踏切。画面奥が山下駅で、上り勾配になっているのがわかる。2015.11
図B-2 完成した現在線の踏切。この日は試運転列車が走行していた。2016.11
図B-3 旧線との踏切跡。すでに線路は取り除かれているが、縁石が名残を残す。2015.11
図B-4 旧線から現在線の踏切を望む。踏切に向けて道路が一段高くなっているのがわかる。
2016.11

 そのまま線路は一直線に高架を進んでいき、内陸へ入っていきます。田んぼを斜めに突っ切って、山元いちご農園付近でカーブを描いて真南を向きます。この地点Cでは、道路と水路をまとめて跨ぐ橋が架けられていますが、この橋の鋼材部分は苺をイメージしたピンク色です。

図C-1 建設途中の橋。迂回路への矢印と、そこを進む自動車が写る。2015.7
図C-2 橋は完成し、架線の工事に映った段階。いちご農園の看板と橋のピンクのコラボ。2015.11
図C-3 営業列車が橋を駆け抜ける。いちご農園の宣伝も心なしか賑やかだ。2016.12

 建設途中から記録していたこの橋を営業列車が走る姿を見たときは、思わずシャッターを押す指に力が入りました。

 進路を南に戻した常磐線は、移設された山下駅へと向かいます。上下線どちらからも進入と出発ができる構造となっていて、定期列車でも山下止まりの列車が設定されています。駅前にはスーパーマーケットが出店していて、新たな生活の中心となる予感を与えていました。

営業を間近に控えた山下駅。2016.11
乗客を迎え入れる準備は万端だ。2016.11
現在線の山下駅至近の交差点に掲げられていた、旧山下駅を示す看板。ちなみに、現山下駅はこの交差点を直進したところにある。2016.11

 この山下駅は、将来の貨物列車通過に備えて有効長を伸ばす準備工事がされています。残念ながら現時点では貨物列車についてのアナウンスはありませんが、ぜひとも運行を再開してほしいですね。

 今回は浜吉田 – 山下間を取り上げました。次回は坂元駅までの区間を紹介します。

気仙沼大島と三陸鉄道

 未曾有の10連休となった今年のGWウィークに、気仙沼大島に行ってきました。
 2018年の2月に「卒業旅行」と称して初上陸を果たしたのですが、今年の4月に劇的な変化があったのです。

 はじめに大島について紹介しましょう。大島は宮城県北部の気仙沼湾に浮かぶ県最大の有人離島です。2019年5月現在、およそ1,000人が暮らし、島内にはバス路線も存在しています。本土と島を結ぶ手段は、カーフェリーと連絡船に限られていました。

 しかし、2019年4月に本土と島を結ぶ鶴亀大橋が完成し、陸路で結ばれることとなりました。これにより、天候に左右されず素早く移動することができるようになったことで、人の流れが劇的に変わりました。

国土地理院から引用した大島北部の地図。赤丸が気仙沼大島大橋。
緑が亀山(標高233m)で、青で囲んだのがフェリーの発着していた浦の浜漁港である。

 仙台でサークルの友人と合流し、途中道の駅上品の郷で他の面々と合流した私は、一路三陸道を北上しました。私が仙台に来た頃には登米東和インターチェンジまでしか到達していませんでしたが、6年間のうちに志津川からその先の歌津まで延伸され、今年の春には本吉まで高速道路が繋がりました。
 しかし、暫定開業特有の中途半端な位置で降ろされたため、1kmくらいの渋滞にガッツリ嵌り、通過に40分ほど取られるてしまいました。その場所を抜けても、気仙沼までかなり渋滞していて、市内は車の移動が困難なくらいでした。
  なんとか気仙沼市街地を迂回して鹿折唐桑方面から大島に向かおうとすると、本土側の接続道路が未開通なせいか対向車線が唐桑半島の途中から市内まで車列が繋がっていました。島への方向は至って快適だったのですが、流石に開通して間もない橋の袂は人が多く、クルマを止めることはできなかったので今後の課題にしておきます。
  橋から島内の一部までも高規格な道路続いており、途中詰まることなく浦の浜漁港に到着することができました。

 島内に入った一般車両は浦の浜駐車場に500円で駐車し、そこから島内で最も高い亀山まで無料のシャトルバスに乗ることができます。
  バス好きの多いサークルOBの面々は、真っ先にバスへ乗り込み亀山へ行き、遮る物のない大パノラマを堪能しました。しかし、この行動が裏目に出て、駐車場に戻った頃には14時も回ろうかという時間帯となり、島内で昼食難民になってしまいました。
  仕方なく湾岸の売店で当座を凌ぐ軽食を購入したあと、陸前高田に行って昼食を取る流れとなりました。
  大島から本土へ戻る際には、行きの渋滞を見ていたために、唐桑半島側を経由して陸前高田へ向ことにしました。
 しかし、これがまた狭い道で、一緒に行った友人は「夜襲でよく通った定番ルート」という話をしていたのですが、流石に狭くて肝を冷やしました。私のクルマがギリギリ通れるくらいの幅で、途中は対向車が来ないでくれと祈りながら運転していました。

マイヤでお買い物したあとは、3日解散組と分かれて2台体制で碁石海岸に行きました。切り立った崖の中腹が黒く、この岩が落ちて波に洗われると碁石になるのでしょう。黒く濡れた石はとてもきれいに輝いていて折しも午後の斜光線に照らされて一巻きの絵画のような印象を受けました。

この日は陸前高田に宿をとりました。着いた時間が早かったので、夕飯がてら盛駅に向かいます。

 陸橋でウロウロしていると、運良く岩手開発鉄道の貨物列車が来ました。石灰石を大量に積んでいて、いまから港に卸に行くのでしょう。
 この列車を見送ってから宿に戻り、翌日の三陸鉄道乗車に備えて早く休みました。

阿寺森林鉄道の鉄橋

 南木曽岳から降りてきてお昼を食べたあとは、森林鉄道の跡が残る林道へ向かいました。見てきたのは阿寺渓谷に沿った阿寺森林鉄道の鉄橋です。国道19号から木曽川を渡って支流の阿寺川へ向かうときつい上りが続きますが、森林鉄道の橋から先は林道が林鉄敷を再利用しているため、一気に勾配がゆるくなるという面白い林道を走ってきました。

趣のある鉄橋。手摺があったが、さすがに渡れなかった。

 ここで閑話休題。発電所とは直接関係ありませんが、木曽川の歴史を語るにあたり外せないのが林業です。
 木曽川沿いは御料林もある材木の産地として有名でした。そして、この木材を搬出する方法として、明治時代までは木曽川支流に直接流すという豪快な方法を取っていました。流した材木は本流で八百津町まで下り、そこで筏を組まれて更に下流へ輸送されるのです。この方法を「川狩り」と呼んでいましたが、洪水が来ると失なってしまう木材が多く、なにより急増する需要を賄えないとのことで、森林鉄道から中央本線につなげて出荷する方式に切り替えました。

 この輸送方法の転換により、木曽川本流をせき止める大井ダムの建設が可能になりました。おや、発電所と関係がありましたね。一見関係のないように思える産業が思わぬところで結びつき、我々の生活を支えてくれていることに思い至ります。

ちょっと下流から見た鉄橋。3月でなかったら河原まで降りていたかも。

 本流とちがって大変澄んだ水が流れていて、寒い季節でなければ飛び込みたくなるような場所です。しかし、ここも増水時にはその本性を表すようで、田石と言われる急流の中で回転した石が川床に丸い穴をあけたところが残っており、流れの凄まじさを主張しているようでした。その光景は私に岩手県の厳美渓を思い起こさせ、少し懐かしい気持ちになりました。

これは岩手の厳美渓。丸いくぼみができた石があちこちに見受けられる。

今回は送電鉄塔がメインだったので廃線跡には踏み込みませんでしたが、木曽路にはあちこち森林鉄道の遺構が残っているので、今度はそちらを主題にした旅もしてみたいなと思っています。

寝覚発電所の上流で見かけた森林鉄道の橋。歩道として再利用されている。

茨城の新幹線

あけましておめでとうございます。
2019年が、皆様にとって良い年となるようお祈り申し上げます。
今年の目標として、毎月1本は記事を書くことを宣言します。
どうぞお付き合いくださいませ。

 さて、私の住む茨城県は「新幹線 通過すれども 駅はなし」という大変珍しい県です。ゆえに、県内で停止状態の新幹線車両を見ることはかないませんでした。

 しかし、去る11月10日に歴史が塗り替えられました。県西部の筑西市にあるゴルフ場をメインとした複合施設「ヒロサワシティ」に、オーナーの趣味でJR東日本 E2系新幹線電車が展示されたのです。

1両だけ標準軌の車両がある。

 これにより、停止状態の新幹線が茨城県内に出現することになりました。

 ヒロサワシティは以前から、鹿島臨海鉄道の7000形はまなすライナーやEF81の北斗星を展示していました。最近ではD51を増やして話題になっています。しかし、私は県内在住でありながら今まで行ったことはなく、これは重畳、とカメラ片手に出かけてきました。

 早速11月11日に現地へ行った私は、ピカピカの姿のまま鎮座したE2系とご対面しました。そして、下から見上げる新幹線電車の迫力に圧倒されました。この金属の塊が時速300kmに迫る速さで走るのですから、そのエネルギーたるや想像を超えるものがあります。大きな変電所と超高圧送電線が必要なのも納得です。

意外と背が小さいと感じたE2系。このアングルだとノーズ内部の桁構造が浮き上がる。

 せっかくの保存車両ですから、隅々まで見てみましょう。 1週間前までは線路の上にいたので、ブレーキディスクも輝きを残していました。

車輪ディスクブレーキは男の子の憧れ。

 新幹線のパーツで、私が一番心を惹かれたのは、電気連結器です。

駅のホームでは、こんな写真は望めない。

 このいくつもある接点には、加速指令やブレーキ指令、車内放送などの信号が通り抜けていたのでしょう。これらすべての線を過たずに繋ぎ、その機能を維持することが求められていたわけです。

端子の数は100個近くもある。

 まだ現役で走行している車両もある新幹線電車を、これほどまで近いアングルで見ることができる場所はなかなかありません。

この記事を読まれた諸兄には、訪問を強くお勧めできる場所です。