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常磐線ルート移設区間(坂元ー新地) 後編

 前回に引き続き、坂元 – 新地間の定点観測写真を紹介していきます。

坂元- 新地間の地図。地理院地図より転載。

 この区間で私が最も気に入っている場所が、谷を大きく切通したこの地点Dです。かつてこの場所を通っていた道路を常磐線へ沿うように移設しているので、高い地点から列車を見下ろすことができます。坂元方向と新地方向、どちらを見ても列車を見下ろすことができるので、撮影するには大変適した場所です。あまりにも綺麗な直線とカーブなので、まるで鉄道模型のジオラマのようにも思えます。

図D-1 切通区間から上野方を見る。線路を通す高さまで切り崩している途中。遠くに見えるのは新地火力発電所。2015.02
図D-2 仙台方を見た写真。赤川の谷をまたぐ高架橋を建設しているところ。移設された道路のガードレールの白さが眩しい。2015.02
図D-3 ついに路盤の高さまで切り取った状態。法面も美しく補強してある。2015.07
図D-4 奥に見える高架橋も完成に近づいている。2015.07
図D-5 赤川を渡る高架橋も床板を確認できる。2015.07
図D-6 図D-5の線路と同じレベルから上野方面を望む。
図D-7 上野方を望む。すでに枕木が設置され、線路の固定を待っている状態だ。2015.11
図D-8 すでに高架橋は完成して、一直線に伸びる線路が美しい。
図D-9 営業列車が新地駅へと向かう。直線が緩やかな曲線で結ばれる様が、まるで鉄道模型のジオラマのように見える。2016.12
図D-10 赤川の橋から切通へ向かう営業列車。2012.16

 線路に沿った道路は常磐線よりも下から始まることから、任意の高さで線路を眺めることができました。特に、目線が路盤と同じ高さになる場所では線路工事も間近に見ることができて、通うたびに景色が変わる興味深い区間でした。

 また一つ谷を越えて台地を通り過ぎると現新地駅に到着しますが、小さくて雰囲気のよい函渠が地点Eにあり、ここの地点も毎回撮影していました。2015年の2月に築堤上にポツンと佇むパワーショベルを撮影した図E-1は、その中でも好きな写真です。そして、重機がいた場所を軽やかに列車が走り抜けていく図E-4との対比を楽しんでもらえればと思います。

図E-1 築堤の上面を整地するパワーショベル。2015.02
図E-2 法面が補強されて、植物が植えられている。白いコンクリートとの対比が眩しい。2015.07
図E-3 架線柱が立ち始めた頃。法面の補強も終わっていた。2015.11
図E-4 営業列車が駆け抜ける。かつて重機が作業していた場所をE721系が通過する。

 現在の新地駅は、大きく嵩上げされた盛り土の上に立ち、位置もより内陸に移りました。駅前は新たな住宅地として売り出されており、また役場も近いことから、便利な街になりそうです。

現新地駅。列車が来ない時間帯は大変静かになる。

 この新地駅の仙台側には、貨物列車に対応するための分岐器準備工事がされています。最近は特急の直通に伴い10両編成の列車交換には対応したそうですが、今後の完全な拡張を期待してしまいます。

 現駅が山側に移設された一方で、旧新地駅には県道が通過しています。かつては踏切の痕跡もありましたが、いまでは道路に飲み込まれてすっかりその面影もなくなりました。

この先の平地が旧新地駅だった場所である。右奥の盛り土は現新地駅だ。2013.04
316km222と書かれた杭とともに、途切れた旧本線のレール。2013.04

 新地駅から坂元駅までの区間の常磐線旧ルートは、嵩上げの後県道の敷地に転用されています。自分でハンドルを握って運転するときには、往時の優等列車が駆け抜けた姿に思いを馳せつつ、消えていった生活も頭に置いて走りたいものです。

 次回はルート変更区間の最南端である、新地 – 駒ヶ嶺間です。こちらは大きな変化はなく地味な場所ですが、被災した線路がいかに復旧していくかにも焦点を当てて行きたいと思います。

常磐線ルート移設区間(坂元ー新地) 前編 

 今回は坂元駅から新地駅までを紹介していきます。今回の区間は圧倒的な土木構造物の連続で、丘陵地帯をダイナミックに駆け抜けていくことから私が最も好きな区間です。写真が多いため、前編と後編に分けてお送りします。

坂元 – 新地間の地図。地理院地図から引用。

 坂元駅を出た列車は、新地駅まで丘を削り谷を橋でまたぐ、直線的な非常に良い線形で走っていきます。坂元中学校の裏を切通で抜けると、地点Aで町道をまたいで次の台地へと向かいます。

坂元駅上野側1 高架橋から切通に変化する地点。2015.02
坂元駅上野側 2 すでに切通斜面の補強は完了していた。2015.07
図A-1 町道から見た建設中の切通。2015.02
図A-2 完成した立体交差。2016.11

 地点Bの一の沢川の谷をまたぐ区間のすぐ脇が、常磐線の建設と県道の嵩上げに伴う土砂の採取場所になっていて、ひっきりなしにトラックが出入りしていました。

図B-1 一の沢川の谷の仙台方。2015.02
図B-2 前の図と同じ地点。たったの5か月でここまで完成させてしまったのは素直に驚きだ。2015.07
図B-3 地点Bの海側には、復興工事に必要な土砂の採取場があった。2015.07

 一の沢川を渡った常磐線は、地点Cの台地上へ進みます。この区間では畑の真ん中へ唐突に工事の敷地が現れるため、建設当初は何を作っているのか全く分かりませんでした。しかし、その幅と緩やかなカーブから「これが常磐線の新ルートか!」と初めて意識したのがこの場所でした。
 建設工事の進捗に伴い、周辺道路の交差が徐々に変わっていくのが興味深いです。畑の中の細い生活道路は、工事が進むにつれて常磐線に寸断されてしまいました。今では存在しない仮踏切から撮影した写真もあります。

図C-1 画面左右方向に横切っている、色の明るい土の帯が常磐線の予定ルート。2015.02
図C-2 同じ場所を予定ルート上から。中央で交差する小径は、最終的に寸断されてしまう。2015.02
図C-3 小径と予定ルートの交差地点。路盤の整備工事にあたり、通行止めにされている。2015.07
図C-4 C-3の地点から上野方を見る。ちょうど工事車両がある位置に浜原踏切が新設された。2015.07
図C-5 C-4と同じアングルで撮影。浜原踏切の設置工事のため、仮踏切が設けられて小径の往来が復活した。2015.11
図C-6 仮踏切上から仙台方を見る。2015.11
図C-7 一の沢川の高架橋を望む。すでに架線柱が植えられている。2015.11
図C-8 架線の工事が進む。2016.04
図C-9 ピカピカの真新しい吸上変圧器とコンデンサ。2016.04
図C-10 かつて仮踏切があった箇所を試運転列車が通過する。図C-6の画角は取れなくなってしまった。2016.11
図C-11 C-10の位置を車内から撮影する。2019.01

 前編はここまでで終了です。思ったより地点Cの写真が充実していて、掲載数が多くなりました。次回も多くの写真とともに紹介していきます。

常磐線 ルート移設区間(山下ー坂元)

 前回はルート変更区間の仙台側分岐点から、山下駅までを紹介しました。

 山下駅を出た列車は、わずかに海側へ寄りつつ再び地上に降ります。少し突き出した台地の縁をすすんだああとは、進路を山側に向けて今回の工事で新設された2つのトンネル、第1戸花山トンネルと第2戸花山トンネルをくぐります。この記事では、北側にある第2トンネルから紹介していきます。

山下– 坂元間の地図。地理院地図から転載。

 このトンネルを建設している途中の写真を、地点Aから何枚か撮影しています。トンネルの掘削中は出入り口の上に山の神様を祀る「化粧木」が飾られていました。

図A-1 第2戸花山トンネル坑口。上に見える角のようなものが化粧木。2015.02

 これがあれば、「まだトンネル本体の工事が続いている」といういことがわかります。

図A-2 化粧木が取り外された状態。第1戸花山トンネルから進入してきた重機が外に出ているので、本体工事が終わったところだと思われる。2015.07
図A-3 坑口周りの斜面が固められ、線路も敷かれた状態。2015.11

 図A-2とA-3を比較すると、線路の下にはいかに高く砂利が盛られているかということがわかりますね。

図A-4 架線を張る工事が本格的に始められていた。2016.04
図A-5 第二戸花山トンネルに向かう営業列車。2016.12

 マニアックですが、地点Aでは踏切の新設もされていました。線路敷設前から踏切のコンクリート基礎を作っていたのですが、傍から見ると唐突に大きな塊が出現したように感じました。特に道路がない状態だと、地面からの距離が強調されてよりその感想を強めます。

図A-6 「踏切の本体」とでも呼べば良いのだろうか。2015.11
図A-7 仮の踏切から撮影した様子。2016.04
図A-8 完成した踏切を通過する営業列車。2016.12

 第1・第2戸花山トンネルの間には、極めて短い明かり区間があります(地点B)。建設途中は、生コンクリートプラントが設置されていました。この明かり区間のおかげで第2トンネルの坂元側からは次の第2トンネルが見えるため、望遠レンズを使って面白い写真を撮ることができます。

図B-1 第1トンネルと第2トンネルの間にある明かり区間。2015.02
図B-2 完成した明かり区間。架線柱のビームが車両限界を考慮したものになっている。2016.11
図B-3 正確には地点Cからの撮影だが、明かり区間を通過する車両がトンネル越しに見える。2016.12

 地点Cは、第1戸花山トンネルの上野側坑口です。こちらでは面白い建設重機を見かけました。

図C-1 まだ仮の坑口だった頃の第1戸花山トンネル。手前には組立中と思われる重機が見える。2015.02

 実は、この機械は図A-2にも写っているのですが、5か月かけて第1トンネルから第2トンネルに向けて進んでいったようです。建設機械が動いていないときに撮影したので、この機械がどのような働きをするのかは分かりませんでした。おそらく、掘削後のトンネル内壁を完成させるために使ったものだと思われます。また、線路が設置された時には撤去されたことから、軌道工事とは関係しない機械だったようです。

図C-2 坑口の本格的な工事が始まった第1戸花山トンネル。2015.07図
図C-3 完成した第1戸花山トンネル。

 この戸花山トンネルが設置された丘陵は、地元の方々が桜の植樹を続けてきた場所でした。新ルートの工事にあたり、この場所がトンネルとなったことの理由の一つは、桜の名所を保存するためだったそうです。(※1)

 トンネルを出た常磐線は、戸花川を渡って再び高架を連ねながら高度を上げて、坂元駅に到着です。この高架橋はゆったりとしたカーブを描いているので、長編成の貨物列車や特急列車を撮影するにはちょうど良い場所になるでしょう。3月の全線再開が待ち遠しくなる場所です。

図C-4 戸花川橋梁。2016.12
図C-5 20両編成の貨物列車が来れば、とてもいい写真が撮れそうだ。2016.11
図C-6 常磐線では割と長い6両編成だが、物足りなさを感じてしまう。2016.12


 坂元駅は高架上に設置された、行き違いのできない駅です。しかし、将来の増設も視野にいれた構造が、高架橋の各所に見られます。線路を増やす際は、海側に広げるようです。

建設途中の坂元駅。高架が手前に張り出している部分が駅である。2015.11
完成した坂元駅。2016.12

 国道6号がすぐ近くにあり、集落へはより近くなりました。

 かつての坂元駅は、今よりももっと海側にありましたが、津波の直撃を受けて大きな被害を受けました。2013年に訪れた時はホームの跡や線路の通っていた跡があり、踏切も残ったままになっていました。
 しかし、現在は嵩上げされ県道が通過しているので、この光景も今は昔です。かつては列車の運行を支え続けた場所が、より安全な道路交通の礎となっているのは感慨深いです。

旧坂元駅の仙台方踏切の跡を望む。2017.02
常磐線の旧戸花川橋梁を覆うように作られた県道の基礎。2017.02

 次回は坂元駅から新地駅までを紹介していきます。

脚注

※出典
【復興現場最前線】首都圏への足を取り戻せ! JR常磐線14.6㎞を内陸側へ移設復旧 建設通信新聞
http://kensetsunewspickup.blogspot.com/2014/12/jr146.html

常磐線 ルート移設区間(浜吉田ー山下)

 2020年3月14日、東日本大震災で被害を受けた常磐線が全線開通する歴史的な瞬間を迎えます。この良き日を迎えるにあたり、2016年に再開した常磐線の工事について記事を書きたいという思いが、私のなかに強くありました。そこで、一区間ごとに紹介するという形で記録を残していきたいと思います。

 3月11日の震災直後は仙台 – 亘理間だけの運行再開だった常磐線も、その1年後には浜吉田駅まで再開区間を伸ばしました。しかし、そこから南の山下駅から新地駅にかけては津波の影響で路盤が流出し、特に新地駅では停車中の列車が直撃を受けて大破するという被害を受けていました。そのため、この区間は山側に線路を移設しての復旧が決定され、2016年12月に運行を再開することになります。これにより、一足先に走り始めていた相馬 – 原ノ町間と合わせて、仙台から浜通り南部の小高駅まで電車で行くことが可能になりました。
 その工事はちょうど私が仙台で生活をしていた時期に重なっていて、度々沿線に出かけては工事の各段階を撮影していました。これまで忙しさにかまけて記録の整理を怠っていましたが、節目の年として眠っていた写真を今一度まとめて紹介したいと思います。

 浜吉田駅から新旧山下駅にかけての地図を置きました。地点のアルファベットが、下記に示す写真の頭文字と一致しています。

浜吉田 – 山下間の地図。地理院地図から転載。

浜吉田駅は、仙台からおよそ30kmの位置にある駅です。この駅の南側から、現在線は海から離れるようにカーブを描いて高架を進みます。地点Aが、旧線との分岐点です。

図A-1 右に逸れていくのが現在線。旧線は黒い乗用車の左側の空間を走っていた。2015.7
図A-2 図A-1と同じ地点で撮影。2016.11
図A-3 開業後に地点Aを通過する列車。2016.12
図A-4 図A-1と位置から浜吉田駅方を望む。右の空間が旧線で、まさに分岐点を撮影している。2015.7
図A-5 新旧ルートの分岐点を通過する701系電車。2016.12

 地点Bには、現在線の踏切があります。ここは旧ルートにも踏切ありましたが、現在線は高架に向けた上りの途中に設定されているため、道路と交差する位置が高くなっています。

図B-1 現在線に設置された踏切。画面奥が山下駅で、上り勾配になっているのがわかる。2015.11
図B-2 完成した現在線の踏切。この日は試運転列車が走行していた。2016.11
図B-3 旧線との踏切跡。すでに線路は取り除かれているが、縁石が名残を残す。2015.11
図B-4 旧線から現在線の踏切を望む。踏切に向けて道路が一段高くなっているのがわかる。
2016.11

 そのまま線路は一直線に高架を進んでいき、内陸へ入っていきます。田んぼを斜めに突っ切って、山元いちご農園付近でカーブを描いて真南を向きます。この地点Cでは、道路と水路をまとめて跨ぐ橋が架けられていますが、この橋の鋼材部分は苺をイメージしたピンク色です。

図C-1 建設途中の橋。迂回路への矢印と、そこを進む自動車が写る。2015.7
図C-2 橋は完成し、架線の工事に映った段階。いちご農園の看板と橋のピンクのコラボ。2015.11
図C-3 営業列車が橋を駆け抜ける。いちご農園の宣伝も心なしか賑やかだ。2016.12

 建設途中から記録していたこの橋を営業列車が走る姿を見たときは、思わずシャッターを押す指に力が入りました。

 進路を南に戻した常磐線は、移設された山下駅へと向かいます。上下線どちらからも進入と出発ができる構造となっていて、定期列車でも山下止まりの列車が設定されています。駅前にはスーパーマーケットが出店していて、新たな生活の中心となる予感を与えていました。

営業を間近に控えた山下駅。2016.11
乗客を迎え入れる準備は万端だ。2016.11
現在線の山下駅至近の交差点に掲げられていた、旧山下駅を示す看板。ちなみに、現山下駅はこの交差点を直進したところにある。2016.11

 この山下駅は、将来の貨物列車通過に備えて有効長を伸ばす準備工事がされています。残念ながら現時点では貨物列車についてのアナウンスはありませんが、ぜひとも運行を再開してほしいですね。

 今回は浜吉田 – 山下間を取り上げました。次回は坂元駅までの区間を紹介します。

阿寺森林鉄道の鉄橋

 南木曽岳から降りてきてお昼を食べたあとは、森林鉄道の跡が残る林道へ向かいました。見てきたのは阿寺渓谷に沿った阿寺森林鉄道の鉄橋です。国道19号から木曽川を渡って支流の阿寺川へ向かうときつい上りが続きますが、森林鉄道の橋から先は林道が林鉄敷を再利用しているため、一気に勾配がゆるくなるという面白い林道を走ってきました。

趣のある鉄橋。手摺があったが、さすがに渡れなかった。

 ここで閑話休題。発電所とは直接関係ありませんが、木曽川の歴史を語るにあたり外せないのが林業です。
 木曽川沿いは御料林もある材木の産地として有名でした。そして、この木材を搬出する方法として、明治時代までは木曽川支流に直接流すという豪快な方法を取っていました。流した材木は本流で八百津町まで下り、そこで筏を組まれて更に下流へ輸送されるのです。この方法を「川狩り」と呼んでいましたが、洪水が来ると失なってしまう木材が多く、なにより急増する需要を賄えないとのことで、森林鉄道から中央本線につなげて出荷する方式に切り替えました。

 この輸送方法の転換により、木曽川本流をせき止める大井ダムの建設が可能になりました。おや、発電所と関係がありましたね。一見関係のないように思える産業が思わぬところで結びつき、我々の生活を支えてくれていることに思い至ります。

ちょっと下流から見た鉄橋。3月でなかったら河原まで降りていたかも。

 本流とちがって大変澄んだ水が流れていて、寒い季節でなければ飛び込みたくなるような場所です。しかし、ここも増水時にはその本性を表すようで、田石と言われる急流の中で回転した石が川床に丸い穴をあけたところが残っており、流れの凄まじさを主張しているようでした。その光景は私に岩手県の厳美渓を思い起こさせ、少し懐かしい気持ちになりました。

これは岩手の厳美渓。丸いくぼみができた石があちこちに見受けられる。

今回は送電鉄塔がメインだったので廃線跡には踏み込みませんでしたが、木曽路にはあちこち森林鉄道の遺構が残っているので、今度はそちらを主題にした旅もしてみたいなと思っています。

寝覚発電所の上流で見かけた森林鉄道の橋。歩道として再利用されている。