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中部電力泰阜発電所

 伊那・木曽路電力紀行も折り返し、今日は2日目の一番最初である泰阜発電所を紹介します。

中部電力泰阜発電所。2日目は朝から好天に恵まれた。

 中部電力泰阜発電所は、天竜川の本流に作られたダム式発電所です。泰阜ダムで作った落差を、すぐ下流に建設された発電所で電気に変換します。外観は直線基調でシンプルながら、上部に円形の換気窓を持つなどエレガントな印象を受ける発電所です。

 私がこの発電所で最も魅力的だと思うのが、飯田線の隣へ作られた巨大なサージタンクです。

見た瞬間に圧倒される巨大さ。

 サージタンクの役割は、設備の保護にあります。水力発電所が緊急停止するとき、それまで勢い良く流れていた水流が水車の直前で一気に止められます。すると、行き場をなくした水の慣性で、管内の圧力が急激に高まるのです。
 この急峻な圧力の上昇を水撃作用(ウォーターハンマー)と呼びます。
 この現象を抑制するには、途中に遊びを設けて圧力を逃がすことが必要です。そのために水圧鉄管の途中に設置される設備がサージタンクです。
 サージタンクは水圧がかかっている箇所に設置されるため、開口部は鉄管路の入り口より高くないといけません。そのため、遠目からでも目立つ巨大な構造物となることが多々あります。

 この泰阜発電所のサージタンクは、流量が大きい鉄管路の途中に設置されているため直径が巨大で、しかも4本あることから非常に存在感のある設備です。

クルマの脇にあるコンクリートの塊は、水圧鉄管が角度を変える部分。

 実は、この場所に私が来たのは初めてではありません。2012年に飯田線に乗ったことがあり、すぐ脇を通過したことがあるのです。その時は咄嗟のことで記録はできませんでしたが、そのマッシヴさに衝撃を受け、ずっと私の心に鮮烈なイメージを残していました。

 それから月日は流れ、7年の後にゆっくりとサージタンクを観察することができました。折しも飯田線の電車が通過したので、その巨大さを強調できた構図で今回は締めたいと思います。

「電車って、こんなに小さかったっけ?」と思ってしまう。

中部電力南向発電所

 権兵衛峠を下って伊那谷へ降りた我々は、中央道を使って一路南へ進路を変えました。途中駒ケ岳PAなどがありましたが、それらを飛ばして一目散に発電所へ向かいます。
 伊那谷最初の発電所は、福沢桃介が最後に手掛けた南向(みなみかた)発電所です。本シリーズの導入で彼を紹介しましたが、木曽川だけではなく天竜川の開発も行っていました。

外観は、落ち着いた公園のよう。

 南向発電所は、ひらけた県道のそばの、段丘崖の下にあります。ちょっとした落差に見えますが、約13km上流から取水し水車を回しています。
 アクセスしやすい場所にあるせいか、正面は芝生が整備されていてまるで公園のようです。入り口には福沢桃介の胸像と彼がのこした言葉「水而火成」が飾られています。これは福沢桃介が好んで使っていたもので、「水を以て火となす」という意味です。

福沢桃介の胸像が鎮座している。

 黎明期の電力事業は都市部の電灯需要が主であったため、火力発電所からごく近い範囲へ送電していましたが、需要が電灯だけでなく工場や電車などの動力に移り変わると、より経済的に大電力を得ることができる水力発電へ移行しようという動きが出てきました。この言葉は、福沢桃介が水力発電所の建設によって発電事業を成功させようとする気概にあふれた言葉だと思います。

 さて、発電所の外観を見ていきましょう。正面から見ると、クリーム色の外壁に直線的な窓が設けられたシンプルさがありながら、ところどころに入れられた突起や半円の窓が面に表情を与えてくれています。木曽川の桃山発電所にも似た外観ですね。大同電力の息吹を感じる外観です。
  建屋のすべて後ろに水圧鉄管や変電設備が集約されているので、正面から見るとまるで文化施設のような印象を受けます。

実にモダンな外観をしている。

斜めから見ると、斜面に設置されたマッシヴな水圧鉄管や、オリジナルと思われる鉄構が少しだけ見えるのが、興味をそそります。

太い水圧鉄管が、流量の豊富さを物語っている。

 次回は少し下流へ行った場所にある、長野県企業局小渋第二発電所の鉄塔を紹介する予定です。

木曽・伊那路電力紀行 導入

 寝覚発電所の記事から始まったこのシリーズですが、どんな場所を移動したのか知っていただくために、歴史的背景をかいつまんで紹介いたします。

 今回の舞台は長野県南西部、岐阜県と静岡県に接する地域です。ここには南北に糸魚川・静岡構造線(フォッサマグナ)が走り、その西側に木曽山脈が沿うように走っています。この山脈の西に流れるのが木曽川で、東に流れているのが天竜川です。

木曽川と天竜川の略図。河口は意外と離れている。

 これらの川は急峻な谷を下っていくため、「暴れ川」として名を馳せています。しかし、文明開化後はこの急流こそ電気を作るのに好都合であり、二つの河川は発展する都市を支える電源地帯として戦前から積極的に投資が行われてきました。

 この2つの河川の電源開発を主導したのが、大阪に本社を構えた大同電力株式会社です。社長である福沢桃介は「電力王」とも呼ばれ、前身の名古屋電灯株式会社の時代から木曽川を開発し、大正年間には現在の木曽川発電所群の大半を完成させました。その傍ら天竜川の開発にも名乗りを上げ、大久保・南方発電所の建設を指揮しています。
 福沢桃介が関わった発電所は、戦時中の日本発送電株式会社を経て九電力体制に移行する際に、木曽川の電源地帯は関西電力へ、天竜川の電源地帯は中部電力へ移管されました。中部電力の管内だった岐阜・長野の両県に関西電力の施設群があるのは、このような歴史的経緯があるからです。

 今回我々がたどった行程ですが、初日は恵那市の設備を筆頭に、桃介橋訪問、南木曽岳登山、権兵衛峠の連絡線、福沢桃介が建設に携わった最後の発電所である南向(みなかた)発電所等を見てきました。
 次の日は天竜川を下り、泰阜発電所・平岡発電所を訪問し兵越峠を抜け、静岡県の秋葉ダムや船明ダムを見て解散しました。

 次回は木曽川の電力を関西に送電するために大正時代に建設され、今なお現役の鉄塔を紹介したいと思います。

参考: 「木曽川開発の歴史」関西電力東海支社

https://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/tokai/kisogawa/kisogawa.html