賤母線の原型鉄塔を撮影した我々は、岐阜県を後にし長野県に向かいます。そして、JR中央本線 南木曽駅のすぐ近くに架かる桃介橋でクルマを止めました。
この橋を作った目的は、大同電力読書(よみかき)発電所建設のために、工事用軌道で駅と作業現場を結ぶことでした。現在は遊歩道として、自由に渡ることができます。
河原に広がる岩の大きさが、暴れ川であることを主張している。
以前に訪問したことがあるのですが、工事用軌道のレールが残っていることに気づきませんでした。今回は橋脚に残ったレールの跡をしっかり撮影することができました。現在は吊っている桁が木製ですが、工事用軌道のあった当初は鉄製の桁だったようです。
中央コンクリート部に埋め込まれているのが工事軌道のレールだ。
桃介橋を見学したあとは、いよいよ南木曽岳へ登山です。と言っても目指すのは登頂ではなく、途中にある送電鉄塔を撮影することが真の目的です。下に地理院地図へ加筆したものを記します。
登山ルート概略図。赤旗が上ノ原登山口で、緑が登山道。オレンジで示した地点が第一鉄塔で、紫で示したのが第二鉄塔である。
地図中に示した第一鉄塔(オレンジ)と第二鉄塔(紫)は、登山者が便宜的につけた名称です。このうち第二鉄塔が大正時代に作られた木曽幹線の原型であり、しかもここだけ回線ごとに鉄塔が建っているという珍しい構造をしています。今回の旅の最大目標と言っても過言ではありません。
ちゃんと登山届を入り口に提出したあとは、いよいよ登山道に向かいます。新しく砂防ダムを作ったところまでは比較的歩きやすかったのですが、そこから先は急激な上りと足元を埋め尽くした落ち葉の斜面にかなり苦労させられました。第一鉄塔と呼ばれる送電鉄塔に着くまでに、等高線を直角に横切るような道が続きます。同行者が息も絶え絶えになりながら、鉄塔に到着しました。
木々の隙間から第一鉄塔が見えている。
すぐそばに感じるが、とにかく登りが急で撮影から到着まで5分近くかかった。
次の第二鉄塔までも距離は短いですが強烈な上りが続き、またもや小休止を挟みながら牛歩の速度で登りきりました。
第一鉄塔からの眺め。
そこで我々を待っていたのは、大正時代に作られた、大阪電灯株式会社をルーツとする関西電力木曽幹線の須原甲乙35鉄塔です。前後の区間が大きく谷を通過するからかもしれませんが、この区間は1回線ごとの鉄塔となっています。
木曽幹線須原甲35鉄塔。平場がないため引いた写真が撮れなかった。
お隣の尾根にある鉄塔のほうが、外観を把握しやすいかも。
まず足元を見遣ると、もとは円盤状だったと思われる茶色の破片を見つけました。これは明らかに碍子ですね。よく見ると釉薬の一部が溶けていて、そこからフラクタル構造の紋様が浮かび上がっていました。おそらく落雷を受けて割れてしまったものでは、と考えています。
表面の釉薬が融けている箇所が確認できる。
そして次に興奮したのが、主材に陽刻された”U.S.A CARNEGIE”の文字列でした。およそ100年前に作られた鋼材が、適切な保守管理を受けて今なお現役を続けている姿に強い感銘を受けました。
“CARNEGIE U.S.A”の文字がはっきりと残っていた。感動。
足元をよく見てみると、斜めの補強材だけ亜鉛メッキの近代的なもになっています。近くのプレートにはボルトを外した穴が残っており、おそらく昔の構造材を取り外して改修を行ったと見受けられます。
下の2本だけ新しく、中央のプレートにはボルト穴を開けなおした跡が確認できる。
一つ上流の尾根には、大阪送電線の原型鉄塔が立っていました。登山道の部分だけ二回線に分けているのは、その下流側で急峻な谷を登り降りするからだと考えています。
こちらの鉄塔も大正12年からこの地に立っている。
登山SNSでは30分弱と紹介されていた行程を1時間ちょっとかけて登ってきましたが、帰りは行きの辛さが嘘のように、快調なペースで降りてきました。そして正味2時間におよぶ登山は、登頂することなく目的を達成して終了しました。二人して運動不足を痛感していましたが、一仕事を終えた清々しい顔をしていたと思います。
地図を再掲するが、第一鉄塔手前から第二鉄塔まで道が等高線を直角に横切っている。
実際斜面を真っ直ぐ登らされているような区間が大半だった。