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蒼穹のファフナーを語りたい

 アニメ作品「蒼穹のファフナー BEYOND」の上映に伴い、現在YouTubeでは公式アカウントにて過去のシリーズ作品が期間限定で公開されています。ぜひ皆さんに触れてほしいと思い、この作品について語りました。ネタバレを含みますが、今までファフナーに触れて来なかった方に、少しでも魅力が届くように心掛けました。いつものブログと文体が異なっているのは、ご容赦ください。

 私がもっとも好きなアニメがある。それは「蒼穹のファフナー」シリーズだ。最初のTV版が放映されたのは2003年で、私はまだ小学生だった。しかし、当時はこの作品を見ていなかったし、存在も知らなかった。TV版直後の特別編を挟んで、その次の作品は2010年に上映された劇場版「HEAVEN and EARTH」だ。この時私は高校生だったが、わずかにファフナーの名前を聞いた記憶がある。それでも、作品を見たり追いかけたりしようとはしなかった。

 私がようやく蒼穹のファフナーを見たのは、大学生も3年目になってからのことだ。きっかけは、書店で新装版を見つけたとあるSF小説である。その小説の作者こそ、ファフナーの脚本を担当している冲方丁氏であった。読後感に浸ってページを所在なくめくっていた私は、何気なく巻末の著者略歴に目を止めた。そこには、蒼穹のファフナーの脚本担当という文字列があった。初めてこの作品を見てみようという思いが、私の中に生まれた瞬間だった。
 当時夏季休暇中だった私は、早速近所にあるレンタルビデオ店に向かい、一掴みのDVDを借りてきた。そして、すぐにこの作品の虜になった。その日を境にして、私の人生はファフナーから多大な影響を受け続けている。

 私がこの作品に惹かれる最も魅力的な要素として、「人間讃歌」と「相互理解」の2つがあると考えている。

 最初に「人間賛歌」について詳しく述べる。劇中では、たとえ誰かがいなくなったとしても(あえて「死んだ」とは表現しない)、その存在が与えた影響・結果はこの世に残り、そして次世代へと受け継がれていく。一人の人間が生きた証が、その想いが、形を変えながらずっと作品の中へ残るのだ。「何を当たり前のことを言っているんだ」と思う人もいるだろう。しかし、ファフナーのここが素晴らしい部分であるのだが、いなくなった人間に対する周囲の感情描写が細やかで、確かにその人が「ここにいた」ことを実に強く印象づけてくるのだ。そして、それでも残された我々は前を向いて行かなければいけないと、いなくなった人の存在を忘れずに希望を信じて今を生きる人の心が切に感じられる。つまり、劇中の人生を終えて「もういない」人たちの存在が、しっかりと「ここにいる」人たちに受け継がれているという描写に、しっかり尺を割いているのだ。
 「あなたの人生は無駄ではない」「あなたの生きた証はずっとここにある」と伝えられているようで、私はここにファフナーという物語の救いががあると思っている。自分がいなくなったとしても、忘れずにずっと覚えていてくれる人がいることのなんという救いか。ファフナーでは「ここにいる」ときに周囲の存在に与えた影響が、すべて肯定されるのだ。ここでいう「肯定」に、影響の善悪という概念は入っていない。ただ「生前になし得たこと」が周りへの影響となって、世界に残るのだ。
 これは、人の行動・感情すべてをここにあるものとし賛美する、「人間賛歌」に他ならないと考えている。

 次のテーマである「相互理解」に移ろう。ファフナー世界では、ロボットに乗って敵と戦うのだが、敵は人間の心を読む能力があるので、複数人で感覚や意識、感情まですべてシステムで共有する必要がある。これにより、個々の心を守るのだ。つまり、ロボット搭乗者とシステム搭乗者は、痛みや不安や衝動すべてを共有することになる。しかし、共有するだけでは「分かり合えない」とこの作品は主張する。それが端的に現れるのがメインキャラ二人の関係だ。
 主人公である真壁一騎と皆城総士の二人は、幼馴染なのだが過去のとある事件によりぎこちない関係となっている。物語開始時点で、一騎は大切な友人である総士を傷つけたのに、謝罪をできなかったという負い目から「自分なんかいなくなればいい」と思いながら生きていた。しかし、総士はその事件を通して自己を確立することができたので、実は 一騎 に感謝していたのだ。このように相手に対する本当の想いを持っていながら、その気持ちを互いに十分な言葉にしなかったことで、ファフナーに乗った瞬間から二人の間の溝は更に広がり始める。すべての感情をシステムで共有しているから、相手が自分の気持ちをわかってくれるはずと考えてしまったのだ。結果として、二人とも相手のことを一番大切に想っているのに、戦いを重ねるたびにその心は遠く離れてしまう。これを取り戻すのは、相手が置かれた状況や感情を理解し、それを踏まえて「もう一度話がしたい」と言葉にして互いに伝え合うことが大切だと気づいてからだった。
 身近な人や大切な人ほど、遠慮や甘えがあって本音を伝える場面が少なくなり、大きなすれ違いを生んでしまうのは起こりがち悲劇である。しかし、お互いを理解し自分の気持ちを伝えあうことで、悲しみや痛みを減らすことができる、そう信じられる世界があるはずだというメッセージをこの作品は投げかけてくれるのである。

 以上、2つに絞って私が蒼穹のファフナーを愛する理由を書いてきた。ここまで読んでくれたあなたに感謝の意を伝えたい。もし、この文章が「蒼穹のファフナー」という作品に触れるきっかけをあなたにもたらしたのならば、私の存在が作品を通してあなたに「祝福」を与えたことになる。一人のファンとして、これ以上の幸せはない。

気仙沼大島と三陸鉄道

 未曾有の10連休となった今年のGWウィークに、気仙沼大島に行ってきました。
 2018年の2月に「卒業旅行」と称して初上陸を果たしたのですが、今年の4月に劇的な変化があったのです。

 はじめに大島について紹介しましょう。大島は宮城県北部の気仙沼湾に浮かぶ県最大の有人離島です。2019年5月現在、およそ1,000人が暮らし、島内にはバス路線も存在しています。本土と島を結ぶ手段は、カーフェリーと連絡船に限られていました。

 しかし、2019年4月に本土と島を結ぶ鶴亀大橋が完成し、陸路で結ばれることとなりました。これにより、天候に左右されず素早く移動することができるようになったことで、人の流れが劇的に変わりました。

国土地理院から引用した大島北部の地図。赤丸が気仙沼大島大橋。
緑が亀山(標高233m)で、青で囲んだのがフェリーの発着していた浦の浜漁港である。

 仙台でサークルの友人と合流し、途中道の駅上品の郷で他の面々と合流した私は、一路三陸道を北上しました。私が仙台に来た頃には登米東和インターチェンジまでしか到達していませんでしたが、6年間のうちに志津川からその先の歌津まで延伸され、今年の春には本吉まで高速道路が繋がりました。
 しかし、暫定開業特有の中途半端な位置で降ろされたため、1kmくらいの渋滞にガッツリ嵌り、通過に40分ほど取られるてしまいました。その場所を抜けても、気仙沼までかなり渋滞していて、市内は車の移動が困難なくらいでした。
  なんとか気仙沼市街地を迂回して鹿折唐桑方面から大島に向かおうとすると、本土側の接続道路が未開通なせいか対向車線が唐桑半島の途中から市内まで車列が繋がっていました。島への方向は至って快適だったのですが、流石に開通して間もない橋の袂は人が多く、クルマを止めることはできなかったので今後の課題にしておきます。
  橋から島内の一部までも高規格な道路続いており、途中詰まることなく浦の浜漁港に到着することができました。

 島内に入った一般車両は浦の浜駐車場に500円で駐車し、そこから島内で最も高い亀山まで無料のシャトルバスに乗ることができます。
  バス好きの多いサークルOBの面々は、真っ先にバスへ乗り込み亀山へ行き、遮る物のない大パノラマを堪能しました。しかし、この行動が裏目に出て、駐車場に戻った頃には14時も回ろうかという時間帯となり、島内で昼食難民になってしまいました。
  仕方なく湾岸の売店で当座を凌ぐ軽食を購入したあと、陸前高田に行って昼食を取る流れとなりました。
  大島から本土へ戻る際には、行きの渋滞を見ていたために、唐桑半島側を経由して陸前高田へ向ことにしました。
 しかし、これがまた狭い道で、一緒に行った友人は「夜襲でよく通った定番ルート」という話をしていたのですが、流石に狭くて肝を冷やしました。私のクルマがギリギリ通れるくらいの幅で、途中は対向車が来ないでくれと祈りながら運転していました。

マイヤでお買い物したあとは、3日解散組と分かれて2台体制で碁石海岸に行きました。切り立った崖の中腹が黒く、この岩が落ちて波に洗われると碁石になるのでしょう。黒く濡れた石はとてもきれいに輝いていて折しも午後の斜光線に照らされて一巻きの絵画のような印象を受けました。

この日は陸前高田に宿をとりました。着いた時間が早かったので、夕飯がてら盛駅に向かいます。

 陸橋でウロウロしていると、運良く岩手開発鉄道の貨物列車が来ました。石灰石を大量に積んでいて、いまから港に卸に行くのでしょう。
 この列車を見送ってから宿に戻り、翌日の三陸鉄道乗車に備えて早く休みました。

中部電力泰阜発電所

 伊那・木曽路電力紀行も折り返し、今日は2日目の一番最初である泰阜発電所を紹介します。

中部電力泰阜発電所。2日目は朝から好天に恵まれた。

 中部電力泰阜発電所は、天竜川の本流に作られたダム式発電所です。泰阜ダムで作った落差を、すぐ下流に建設された発電所で電気に変換します。外観は直線基調でシンプルながら、上部に円形の換気窓を持つなどエレガントな印象を受ける発電所です。

 私がこの発電所で最も魅力的だと思うのが、飯田線の隣へ作られた巨大なサージタンクです。

見た瞬間に圧倒される巨大さ。

 サージタンクの役割は、設備の保護にあります。水力発電所が緊急停止するとき、それまで勢い良く流れていた水流が水車の直前で一気に止められます。すると、行き場をなくした水の慣性で、管内の圧力が急激に高まるのです。
 この急峻な圧力の上昇を水撃作用(ウォーターハンマー)と呼びます。
 この現象を抑制するには、途中に遊びを設けて圧力を逃がすことが必要です。そのために水圧鉄管の途中に設置される設備がサージタンクです。
 サージタンクは水圧がかかっている箇所に設置されるため、開口部は鉄管路の入り口より高くないといけません。そのため、遠目からでも目立つ巨大な構造物となることが多々あります。

 この泰阜発電所のサージタンクは、流量が大きい鉄管路の途中に設置されているため直径が巨大で、しかも4本あることから非常に存在感のある設備です。

クルマの脇にあるコンクリートの塊は、水圧鉄管が角度を変える部分。

 実は、この場所に私が来たのは初めてではありません。2012年に飯田線に乗ったことがあり、すぐ脇を通過したことがあるのです。その時は咄嗟のことで記録はできませんでしたが、そのマッシヴさに衝撃を受け、ずっと私の心に鮮烈なイメージを残していました。

 それから月日は流れ、7年の後にゆっくりとサージタンクを観察することができました。折しも飯田線の電車が通過したので、その巨大さを強調できた構図で今回は締めたいと思います。

「電車って、こんなに小さかったっけ?」と思ってしまう。

中部電力南向発電所

 権兵衛峠を下って伊那谷へ降りた我々は、中央道を使って一路南へ進路を変えました。途中駒ケ岳PAなどがありましたが、それらを飛ばして一目散に発電所へ向かいます。
 伊那谷最初の発電所は、福沢桃介が最後に手掛けた南向(みなみかた)発電所です。本シリーズの導入で彼を紹介しましたが、木曽川だけではなく天竜川の開発も行っていました。

外観は、落ち着いた公園のよう。

 南向発電所は、ひらけた県道のそばの、段丘崖の下にあります。ちょっとした落差に見えますが、約13km上流から取水し水車を回しています。
 アクセスしやすい場所にあるせいか、正面は芝生が整備されていてまるで公園のようです。入り口には福沢桃介の胸像と彼がのこした言葉「水而火成」が飾られています。これは福沢桃介が好んで使っていたもので、「水を以て火となす」という意味です。

福沢桃介の胸像が鎮座している。

 黎明期の電力事業は都市部の電灯需要が主であったため、火力発電所からごく近い範囲へ送電していましたが、需要が電灯だけでなく工場や電車などの動力に移り変わると、より経済的に大電力を得ることができる水力発電へ移行しようという動きが出てきました。この言葉は、福沢桃介が水力発電所の建設によって発電事業を成功させようとする気概にあふれた言葉だと思います。

 さて、発電所の外観を見ていきましょう。正面から見ると、クリーム色の外壁に直線的な窓が設けられたシンプルさがありながら、ところどころに入れられた突起や半円の窓が面に表情を与えてくれています。木曽川の桃山発電所にも似た外観ですね。大同電力の息吹を感じる外観です。
  建屋のすべて後ろに水圧鉄管や変電設備が集約されているので、正面から見るとまるで文化施設のような印象を受けます。

実にモダンな外観をしている。

斜めから見ると、斜面に設置されたマッシヴな水圧鉄管や、オリジナルと思われる鉄構が少しだけ見えるのが、興味をそそります。

太い水圧鉄管が、流量の豊富さを物語っている。

 次回は少し下流へ行った場所にある、長野県企業局小渋第二発電所の鉄塔を紹介する予定です。

東京電力天竜東幹線と「わに塚の桜」

 関東地方は梅雨真っ盛り、すっきりしない天気が続く中皆さまいかがお過ごしでしょうか。仙台にいた頃は7月末が梅雨の時期で、考査期間がその憂鬱さに輪をかけていたのを思い出します。
 さて、そんな時期にぴったり…ではないかもしれませんが桜のお話しです。

 「わに塚の桜」をご存知でしょうか。山梨県韮崎市にある一本桜で、これまで郵政省のポスターやテレビドラマのタイトルバックとして多くの人の眼に止まってきました。
 そんな桜になぜ私が着目したかというと、なんとすぐ隣に趣のある送電鉄塔が建っているからなのです。

見事なまでに、鉄塔と桜のコラボレーションが完成している。

 その名も東京電力天竜東幹線で、長野の伊那松島から山梨を結び、そこから首都圏まで電気を供給する長大幹線の一翼を担っています。いつも使っている電気が、 発電所から桜を掠めて来ているのかもしれないと想像すれば、コンセントにプラグを挿入するだけで春を感じられるでしょう。

 この日は首都圏に住む鉄塔マニアと予定を合わせて、早朝の中央自動車道をひた走り韮崎に到着しました。

 着いたのは午前10時過ぎで、ちょうど満開になった桜の周りには、カメラを構えた人がたくさんいました。

かなりの人出だった。左下に写るのは同行者のカメラ。

 ほとんどの人は構図に桜だけを入れるために試行錯誤していましたが、こちらは鉄塔がメインなので何のその。電線・人間どんと来いという意気込みで、歩きながら無造作に桜を撮っていきます。

 この日は暖かいを通り越して少し暑く感じるような天気で、空が乳白色にかすんでしまいました。そのため、晴天でありながらも八ヶ岳を望むことができませんでした。順光を狙ってもちょっと色が弱かったのが残念でしたね。

本来なら八ヶ岳を望めるはず…

 どんどん近づいていくと、人がぎっちり詰まっていい画角を狙いにくくなります。また、多くの人が鉄塔のことを邪魔だと言っているのが聞こえてきました。しかし、私にとっては鉄塔が主目的なのです。むしろ鉄塔を桜と一緒に取り入れようと、積極的にいろいろな角度を試していました。

古い送電鉄塔が連なる様子はとても心洗われる。

 さて、鉄塔の話に戻りますが、名前は天竜東幹線No. 186鉄塔でした。真下は虎ロープで立ち入りが規制されています。しかし、すぐ先に撮影スペースがあったため、順光の送電鉄塔を正面から間近に見ることができました。腕金取り付け部の主材が垂直になっているクラシカルなデザインです。

この角度から見ると、鉄塔がかなり大きく感じる。

 はるか昔からこの地に暮らす人たちの生活を見守ってきた桜と、明治の近代化以降に現れた武骨な送電鉄塔。
 今は鉄塔と桜が静かにたたずんでいますが、建設までにどんなドラマがあったのだろうかと思うと、想像が尽きません。
 いつか大河ドラマになったりしないかなぁ、などと考えながら、梅雨空を眺めています。

権兵衛峠の連絡線

 阿寺森林鉄道の廃橋を見学した後は寝覚発電所に向かい、国道361号線の権兵衛峠を抜けて伊那谷へ抜けました。この峠は中部電力と連系している関西電力の送電線も越えているので、移動と撮影を一度にこなせて一石二鳥です。

 今回の旅行で最も積雪のおそれがある場所がここで、日程が決まってから2週間は固唾を呑んで伊那の天気予報を確認するのが日課になりました。職場のOutlookに表示される天気予報まで伊那・飯田にしていたため、間違って傘を持って出かけてしまったことがあったくらいです。

 しかし、そんな心配も杞憂に終わり、路面がまったく濡れていない状態で通過することができました。
  峠の木曽側では高規格道路に取り付くランプのような道を通っていくことになり、飛騨方向へまだ見ぬ本線が伸びようとする野心を感じさせてくれます。
  権兵衛峠道路の基幹となるのが、およそ4.5 kmの権兵衛トンネルです。木曽山脈を貫いて作られたこのトンネルは、木曽と伊那を最短で繋ぎ、通年走行を可能にしたとてもありがたい存在です。

 峠を抜けて最初の集落に、目当ての鉄塔が立っていました。
関西電力 須原松島線(寝覚) No. 94鉄塔です。上段から下段に向けて腕が長くなる、独特な形をしています。

逆光にシルエットを浮かべるNo.94鉄塔。手前を横切るのは配電線だ。

 ここは山岳地帯ですから、着雪・着氷と風により送電線が上下に揺れたときに、相間で電線が接触するのを防ぐための設計でしょう。主材から腕に斜めに補強が入った、裾広がりの安定感があるシルエットです。この日は朝から曇りでしたが、3時過ぎからは太陽が顔を出して、青空が見えるようになりました。振り返った位置にあるNo.95鉄塔は、青空を背景に風雪に耐えてきた凛とした立ち姿を撮ることができました。

No.95鉄塔。主材から腕金に伸びる補強がよくわかるアングル。

次回はいよいよ天竜川の発電所を紹介する予定です。「電力王」が最後に携わった場所からスタートです。

阿寺森林鉄道の鉄橋

 南木曽岳から降りてきてお昼を食べたあとは、森林鉄道の跡が残る林道へ向かいました。見てきたのは阿寺渓谷に沿った阿寺森林鉄道の鉄橋です。国道19号から木曽川を渡って支流の阿寺川へ向かうときつい上りが続きますが、森林鉄道の橋から先は林道が林鉄敷を再利用しているため、一気に勾配がゆるくなるという面白い林道を走ってきました。

趣のある鉄橋。手摺があったが、さすがに渡れなかった。

 ここで閑話休題。発電所とは直接関係ありませんが、木曽川の歴史を語るにあたり外せないのが林業です。
 木曽川沿いは御料林もある材木の産地として有名でした。そして、この木材を搬出する方法として、明治時代までは木曽川支流に直接流すという豪快な方法を取っていました。流した材木は本流で八百津町まで下り、そこで筏を組まれて更に下流へ輸送されるのです。この方法を「川狩り」と呼んでいましたが、洪水が来ると失なってしまう木材が多く、なにより急増する需要を賄えないとのことで、森林鉄道から中央本線につなげて出荷する方式に切り替えました。

 この輸送方法の転換により、木曽川本流をせき止める大井ダムの建設が可能になりました。おや、発電所と関係がありましたね。一見関係のないように思える産業が思わぬところで結びつき、我々の生活を支えてくれていることに思い至ります。

ちょっと下流から見た鉄橋。3月でなかったら河原まで降りていたかも。

 本流とちがって大変澄んだ水が流れていて、寒い季節でなければ飛び込みたくなるような場所です。しかし、ここも増水時にはその本性を表すようで、田石と言われる急流の中で回転した石が川床に丸い穴をあけたところが残っており、流れの凄まじさを主張しているようでした。その光景は私に岩手県の厳美渓を思い起こさせ、少し懐かしい気持ちになりました。

これは岩手の厳美渓。丸いくぼみができた石があちこちに見受けられる。

今回は送電鉄塔がメインだったので廃線跡には踏み込みませんでしたが、木曽路にはあちこち森林鉄道の遺構が残っているので、今度はそちらを主題にした旅もしてみたいなと思っています。

寝覚発電所の上流で見かけた森林鉄道の橋。歩道として再利用されている。

南木曽岳登山

 賤母線の原型鉄塔を撮影した我々は、岐阜県を後にし長野県に向かいます。そして、JR中央本線 南木曽駅のすぐ近くに架かる桃介橋でクルマを止めました。
 この橋を作った目的は、大同電力読書(よみかき)発電所建設のために、工事用軌道で駅と作業現場を結ぶことでした。現在は遊歩道として、自由に渡ることができます。

河原に広がる岩の大きさが、暴れ川であることを主張している。

 以前に訪問したことがあるのですが、工事用軌道のレールが残っていることに気づきませんでした。今回は橋脚に残ったレールの跡をしっかり撮影することができました。現在は吊っている桁が木製ですが、工事用軌道のあった当初は鉄製の桁だったようです。

中央コンクリート部に埋め込まれているのが工事軌道のレールだ。

  桃介橋を見学したあとは、いよいよ南木曽岳へ登山です。と言っても目指すのは登頂ではなく、途中にある送電鉄塔を撮影することが真の目的です。下に地理院地図へ加筆したものを記します。

登山ルート概略図。赤旗が上ノ原登山口で、緑が登山道。オレンジで示した地点が第一鉄塔で、紫で示したのが第二鉄塔である。

 地図中に示した第一鉄塔(オレンジ)と第二鉄塔(紫)は、登山者が便宜的につけた名称です。このうち第二鉄塔が大正時代に作られた木曽幹線の原型であり、しかもここだけ回線ごとに鉄塔が建っているという珍しい構造をしています。今回の旅の最大目標と言っても過言ではありません。

 ちゃんと登山届を入り口に提出したあとは、いよいよ登山道に向かいます。新しく砂防ダムを作ったところまでは比較的歩きやすかったのですが、そこから先は急激な上りと足元を埋め尽くした落ち葉の斜面にかなり苦労させられました。第一鉄塔と呼ばれる送電鉄塔に着くまでに、等高線を直角に横切るような道が続きます。同行者が息も絶え絶えになりながら、鉄塔に到着しました。

木々の隙間から第一鉄塔が見えている。
すぐそばに感じるが、とにかく登りが急で撮影から到着まで5分近くかかった。

 次の第二鉄塔までも距離は短いですが強烈な上りが続き、またもや小休止を挟みながら牛歩の速度で登りきりました。

第一鉄塔からの眺め。

 そこで我々を待っていたのは、大正時代に作られた、大阪電灯株式会社をルーツとする関西電力木曽幹線の須原甲乙35鉄塔です。前後の区間が大きく谷を通過するからかもしれませんが、この区間は1回線ごとの鉄塔となっています。

木曽幹線須原甲35鉄塔。平場がないため引いた写真が撮れなかった。
お隣の尾根にある鉄塔のほうが、外観を把握しやすいかも。

 まず足元を見遣ると、もとは円盤状だったと思われる茶色の破片を見つけました。これは明らかに碍子ですね。よく見ると釉薬の一部が溶けていて、そこからフラクタル構造の紋様が浮かび上がっていました。おそらく落雷を受けて割れてしまったものでは、と考えています。

表面の釉薬が融けている箇所が確認できる。

そして次に興奮したのが、主材に陽刻された”U.S.A CARNEGIE”の文字列でした。およそ100年前に作られた鋼材が、適切な保守管理を受けて今なお現役を続けている姿に強い感銘を受けました。

“CARNEGIE U.S.A”の文字がはっきりと残っていた。感動。

足元をよく見てみると、斜めの補強材だけ亜鉛メッキの近代的なもになっています。近くのプレートにはボルトを外した穴が残っており、おそらく昔の構造材を取り外して改修を行ったと見受けられます。

下の2本だけ新しく、中央のプレートにはボルト穴を開けなおした跡が確認できる。

 一つ上流の尾根には、大阪送電線の原型鉄塔が立っていました。登山道の部分だけ二回線に分けているのは、その下流側で急峻な谷を登り降りするからだと考えています。

こちらの鉄塔も大正12年からこの地に立っている。

 登山SNSでは30分弱と紹介されていた行程を1時間ちょっとかけて登ってきましたが、帰りは行きの辛さが嘘のように、快調なペースで降りてきました。そして正味2時間におよぶ登山は、登頂することなく目的を達成して終了しました。二人して運動不足を痛感していましたが、一仕事を終えた清々しい顔をしていたと思います。

地図を再掲するが、第一鉄塔手前から第二鉄塔まで道が等高線を直角に横切っている。
実際斜面を真っ直ぐ登らされているような区間が大半だった。

関西電力木曽幹線 恵那市の分岐

 今回の旅の同行者と合流した私が最初に向かったのは、恵那市にある関西電力木曽幹線の大井発電所への分岐構造物です。別れた送電線が向かう関電大井発電所は、我が国初の本格的な重力式コンクリートダムを用いた水力発電所で、建設当時は本邦屈指の出力を誇りました。現在でも最大3万2千kWを発電する能力を持ち、関西圏の消費を支えています。大井発電所近辺の区間は大阪電灯株式会社が建設しており、大正年間に建設されて御年100年を超えるかという構造物です。

右方向が大井発電所への分岐。背の小さい鉄塔が建ち並んでいるのは賑やかでかわいい。

 さて、上の写真には現役の施設にしては不自然な箇所があるのですが、見つけることはできましたか?

分岐方向を見たアングル。あれ、手前の鉄塔の様子がおかしいぞ?

 同行者に言われるまで気づかなかったのですが、手前側のジャンパ線が取り外されていました。これがないと、写真の手前側に電気を送れません。
 まさか、この分岐設備が廃止されてしまうのではないか…と心配していた所、鉄塔の足元にジャンパ線が留められているのを見つけました。

外されたジャンパ線は、足元にまとめてあった。

 注意深く接続部分が地面につかないようになっていたので、もう一度つけ直すことを考えているのではないか、と話しながら次の場所に移動しました。

 途中落合ダムの脇の鉄塔が建て替えられてしまい気落ちしたものの、近くにダム建設時のものと思われる吊橋をみつけて興奮したりと、順調に旅程を消化していきます。

渋くて好ましいつり橋。村瀬橋というそうだ。

 そして、賤母発電所に向かう賤母線の原型鉄塔を撮影していたときに、外されたジャンパ線の謎が解けました。

賤母線のNo.37鉄塔。昭和8年から建っている原型だ。

 遠くの山肌に林立する送電鉄塔を何気なく撮ったところ、その日の夜に画像を確認していた同行者が、建て替え作業をしている木曽幹線の鉄塔を見つけたのです。

撮ったときは「壮観だ……これぞ電源地帯」としか考えていなかった。
よく見たら、画面中央で原型鉄塔の隣に近代的なデザインの鉄塔が建てられている。

 
 分岐構造物のジャンパ線が外されていたのは、この建て替え作業に際して電気を遮断するためだったんですね。
 大正時代から木曽の地に立つ鉄塔が建て替えられ、次の100年を担う鉄塔へ役目を譲る世代交代を見ることができました。

木曽・伊那路電力紀行 導入

 寝覚発電所の記事から始まったこのシリーズですが、どんな場所を移動したのか知っていただくために、歴史的背景をかいつまんで紹介いたします。

 今回の舞台は長野県南西部、岐阜県と静岡県に接する地域です。ここには南北に糸魚川・静岡構造線(フォッサマグナ)が走り、その西側に木曽山脈が沿うように走っています。この山脈の西に流れるのが木曽川で、東に流れているのが天竜川です。

木曽川と天竜川の略図。河口は意外と離れている。

 これらの川は急峻な谷を下っていくため、「暴れ川」として名を馳せています。しかし、文明開化後はこの急流こそ電気を作るのに好都合であり、二つの河川は発展する都市を支える電源地帯として戦前から積極的に投資が行われてきました。

 この2つの河川の電源開発を主導したのが、大阪に本社を構えた大同電力株式会社です。社長である福沢桃介は「電力王」とも呼ばれ、前身の名古屋電灯株式会社の時代から木曽川を開発し、大正年間には現在の木曽川発電所群の大半を完成させました。その傍ら天竜川の開発にも名乗りを上げ、大久保・南方発電所の建設を指揮しています。
 福沢桃介が関わった発電所は、戦時中の日本発送電株式会社を経て九電力体制に移行する際に、木曽川の電源地帯は関西電力へ、天竜川の電源地帯は中部電力へ移管されました。中部電力の管内だった岐阜・長野の両県に関西電力の施設群があるのは、このような歴史的経緯があるからです。

 今回我々がたどった行程ですが、初日は恵那市の設備を筆頭に、桃介橋訪問、南木曽岳登山、権兵衛峠の連絡線、福沢桃介が建設に携わった最後の発電所である南向(みなかた)発電所等を見てきました。
 次の日は天竜川を下り、泰阜発電所・平岡発電所を訪問し兵越峠を抜け、静岡県の秋葉ダムや船明ダムを見て解散しました。

 次回は木曽川の電力を関西に送電するために大正時代に建設され、今なお現役の鉄塔を紹介したいと思います。

参考: 「木曽川開発の歴史」関西電力東海支社

https://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/tokai/kisogawa/kisogawa.html